ひとによっては「清潔感」というのが大友直人のキーワードのようである。大変都合の良い響きがする清潔感はたしかに彼のトレードマークに相応しい。しかし清潔なイメージとは、つまり自身を曝け出すことなく人目、人当たりが良いこと、ひいては皮相的ナルシストの鏡像、いやむしろ抑えるべき隠匿するべき内面すら無い事の裏返しに過ぎないとの謗りを免れ得ない危険性すらある。その点で、果たして大友の清潔感とは・・・。
清潔かどうかはともかく、ラフマニノフ、しかもヴォカリーズは、どこまでも甘美でまるでポール・モーリア版の「恋はみずいろ」を聴いていると同じような溶け具合。ただし恋はみずいろの溶解現象は、そのポピュラー音楽としての生い立ち、それによる同時代とのあまりに密接な結びつきの上に成り立つ一方、ラフマにはそれよりは普遍的な、むしろいやらしい甘美さがたちこめる。それを清潔と並立させることなど本当はできやしない。そして、しかしまさにそれやからこそ、この選曲が冒頭に述べた清潔感と空虚な内面の関係と、奇妙な共犯関係を成立させる。
音の透明感と清潔感というものにも、もし何かしらん結びつきがあるとしたら、そしてその可能性は随分高いわけやが、そうすると京響が持つ音のキャラとラフマ、ヴォカリーズとも、何か響きあうものがあるかも知らん。そう思ったら、いきなり京響らしからぬ異音を第1バイオリン群辺りから、そしてそれが楽団員の一部からの異議や不快感とともに滲ませた。そしてオレにはそれがむしろ自然な事に思えた。やっぱり清潔感という曲者は曲者でしかなかったということなのか。
しかし、これが大友の意図するところなのかどうかは別として、プロコのあまりに有名な古典交響曲の、その見事な諧謔ぶり、そう全曲通してあまりに有名で、あまりに美しくあまりに自己否定的なこの交響曲の再現こそが現代の京響の真骨頂ではないかと聴くものは溜飲を下げる。それを恐らく大友は判っていない。比較的オケの勢いに任せる場面の多い彼の指揮棒は、なぜこのような演奏となったかを理解できない。特に第4楽章の、ありがちなカラフルさをぐっとこらえて極めて健康的な溌剌さをもって締めくくるあの演奏は、アレはオケの力以外のなにものでもなかった。
大友はこの同じスク2を先週末には東響でも演ったらしい。忙しい桂冠指揮者とあってはそれもまた当然の事とはいえ、土地もキャラもそして当然聴衆も違う二つのオケで連続してスク2を演るコツは何か。
恐らく全く同じような指示を、同じような清潔な解釈を、この二つのオケに何の迷いもなく出していたんやろうと推察される、そんな、平たいスクリャービンではあったが、テッパンの管楽器群真後ろポディウムほぼど真ん中上段に陣取った(そう、定期会員をやめてP席に戻ってきたのさww)オレの耳は、そのメリハリの利いた管のお蔭で何度も別世界へと飛ばされた。もちろんそんなことを全く意識していない清潔な指揮者の素直な思い等お構いなく。そして怒涛とゲネラルパウゼの繰り返すコーダのせいで帰ってくることが出来なくなった。まだ仕事が残っていたにも関わらず!
演奏者は冷徹に選ぶが、指揮者など実はダレでもいい、そんなスクリャービンの作風が、既にこの初期の交響曲にも濃厚に反映されていた。しかし何で大友は、「清潔感」の対極にあるようなこんな曲を選ぶんやろう。
4/21(土)
京都市交響楽団第556回定期演奏会
@京都コンサートホール
大友直人/京響
【曲目】
ラフマニノフ:ヴォカリーズop.34-14
プロコフィエフ:古典交響曲ニ長調(第1交響曲)op.25
(休憩)
スクリャービン:交響曲#2ハ短調op.29