可部線廃線区間めぐり | URAROUTEブログ

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地理的にマニアックな場所を訪ねるページです。鉄道・酷道・険道・県境・飛地・果て・日本一(初・唯一)、無くなる前訪問など。時事ネタが理想的ですが、過去に訪れた所を記録的に残すことで精一杯であること、ご了承ください。

毎年恒例のダイヤ改正前乗り鉄で今週末は北海道へ行ってきたりで更新が滞っていて申し訳ありません。再び戻って…

 

この日は広島旅行の2日目。可部線を巡りました。

 

【2018年 広島旅行】

12月30日() 《1日目》 瀬野スカイレールサービス・市内観光・基町高層アパート

12月31日() 《2日目》 可部線

1月1日() 《3日目》 三江線・厳島神社

1月2日(火) 《4日目》 ???

1月3日(水)  《5日目》 帰路

 

予定では瀬戸内海の小島に行くつもりがあいにくの雨。でもそんなこともあろうかとレンタカーを2日間予約済み得意げ 。あまり天候に左右されない場所へ変更したのが廃線巡り。雨がしとしと降る寂しい雰囲気にピッタリです。

 

さて、その可部線とは…

 

JR可部線は山陽本線横川から可部を経てあき亀山までを結ぶ全長15.6kmの電化路線(運行は広島から直通)。かつては可部からその先三段峡までを結んでいましたが、通勤路線として利用客の多い電化区間の横川~可部間を残し、非電化区間の可部~三段峡間は利用客減少(本数僅少)に伴い2003年に廃止されました。

 

ところが、廃止された区間のうち可部~河戸(可部より一つ先)までは市街地が広がり開発が進んでいた地域。廃止が取り沙汰される以前から電化延伸を要望する運動が起こっていました。

 

いったん廃止されるも、その後の沿線住民による熱心な電化延伸復活運動が行われ、その努力が実り2017年、ついに延伸開業されました。いったん廃止した路線が復活するというのは過去に例が無く、極めて稀なケースです。

 

ということで、その延伸開業(復活)を果たしたあき亀山へ。あき亀山は可部の次、廃止区間にもともとあった河戸駅より400m先に新設。延伸されたあき亀山と可部の間に河戸帆待川駅を設置。廃線前にあった安芸亀山駅(漢字で安芸)はこのあき亀山とは全く異なる場所、ここから三段峡方面へ3.4km先。廃線前と復活区間では設置場所や新旧駅名にズレが生じています。

 

可部からあき亀山まで延伸距離はわずか1.6kmですが、この1.6kmに沿線住民が費やした努力はどれだけのものだったかと…。廃止は可部駅を境に電化区間と非電化区間に分かれていた"系統分離"が明暗を分けたわけですが、この復活は国鉄時代ならまずあり得なかったことです。

 

あき亀山駅前から東の市街方向を望む。遠くに可部市街のマンション、市街地からここまで宅地化している様子。北側にはニュータウンもあるようです。そしてその反対側を振り向けば…

 

地形的に平地はここまでなのがわかりましたが、それよりも田舎的雰囲気がムンムン。そして駅舎から西の三段峡方面へ廃線の路盤が続きます。これであき亀山まで延伸できた理由、あき亀山までしかできない理由が何となくわかりました。

 

この後は、あき亀山から続く廃線跡をめぐりました。復活区間と可部駅を含まない廃止駅は全21駅。1日で全駅を丁寧にめぐるのは無理なので、廃線跡に沿って走行中に残存していたものをピックアップしていくことにしました。太字は訪れた先。

 

あき亀山駅前から太田川に沿う広島県道267号線を三段峡方面へ。先ほどの住宅地・平地だったのが嘘かのような山間部へ。

 

今井田駅跡

 

廃止区間、河戸駅の次の駅(あき亀山の次の駅で約2km先)。ホームも待合室も残っていたことで比較できる、あき亀山とその駅周辺とのギャップが凄まじいです。

 

今井田駅の次は安芸亀山(廃止前の駅で、あき亀山とは全く場所の異なる)ですが、駅跡は県道の一部になり残存せず。先を進み、駅舎とJRのマークが残されていた安芸飯室駅。

 

駅名標はJR西日本オリジナルのではなさそうですが、レールもホームも残されていて今でも列車が入ってきそうな雰囲気。そしてここは当時広島市内の駅。

 

さらに川沿い(廃線跡)を辿れば、途中、太田川を越える鉄橋がいくつか残されていました。

 

坪野~田之尻間にある国鉄2万キロ標。国鉄の総延長がここでちょうど2万キロに達したことを記念する碑だそうですが、すでにここに鉄路は無く…。

 

この碑ができたのは1954年(昭29)。戦後10年足らずでこの距離は誇らしくもありますが、JR移管直後は国鉄以上に総距離を延ばすも、後に北海道長大路線の廃止、管内でも2018年の三江線廃止など、廃止距離をどんどん稼ぎ続けています。驚くべきことに現在もこの2万キロはかろうじて保たれているようですが、日高本線のように算入か曖昧な災害運休路線もあり現在の総距離は把握できませんが、このままいくと2万キロを切るのは時間の問題のようです。

 

坪野~田之尻間のトンネル跡。

 

田之尻駅はホームも路盤も、さらに待合室も当時の状態がよく保たれていました。

 

待合室に残されていた廃止直前の時刻表が参考になります。末期は可部から下り三段峡へは直通が2本、途中の加計駅接続が2本の計4本のみという寂しさ。

 

加計駅は後ほど立ち寄ることにして、国道186号線の途中にある木坂駅。国道からは高い築堤上にある駅への階段。国道側に集落はなくなぜここに造ったのか不思議な駅。ここも、

 

廃止当時の様子が保たれています。待合室は入れないようになっていますが、

 

次の殿賀駅は観光用か線路が残され待合室も開放されています。

 

あき亀山から蛇行する太田川の谷間を通ってきましたが、この辺りは多少開け、戸河内駅は中国自動車道のICにもある旧戸河内町(現:安芸太田町)の市街地で、跡地にJRオリジナルの駅名標が残っていました。戸河内の次はいよいよ終点。直線で貫くトンネルを経て。

 

終点、三段峡。

 

駅舎もホームもオリジナルの駅名標も残されていないのが残念です。横川から可部まで国有化されてから延伸を重ねて67年、三段峡まで開通したのが1969年(昭44)、それから2003年の廃止に至るまでわずか34年間の短い歴史。

 

昭和40年代に不採算路線の赤字83線に選ばれながらも、山陽と山陰を結ぶ陰陽連絡路線の将来性に廃止を免れた経緯がありますが、結局三段峡で計画はストップ。

 

ここから先、可部線の目指したのは三段峡より未成線"今福線"を経て浜田に至る。

 

松江・出雲に次ぐ島根県第3位の都市"浜田市”を結ぶ構想。かつては東京⇔浜田直通の寝台特急出雲の運行があり、それなりの需要が見込めての計画だったのかもしれませんが、太田川にほぼ沿って蛇行した線形もあだとなっています。これらあくまでも推測ですが、末期に開業した戸河内~三段峡間のようにトンネルで貫くまっすぐな線形がもし全線にわたって整備されるなど速達性が確保できていれば廃止は免れたか?

 

せっかくなので広島の奥座敷、三段峡へ。老夫婦が1組、それ以外は人がいません。三段峡入口から峡谷の目玉"三段滝"へ行こうと思うも、

 

とにかく寒い。。。寒すぎる嫌 夏は避暑地として絶好のスポットも、冬の時期、特にこの大晦日にここを訪れる人はいないようです。

 

震えながらの"三段峡エントランスのみ散策"を終え、あとは可部線の保存車両を見に行きました。車両だけ撮って周囲の写真を撮るのを忘れてしまいましたが、ここは加計駅。

 

国鉄型車両キハ58系の"旧"の車両に"新"のJRマーク、広島色が残存で、可部線非電化区間の歴史がこの車両に現れています。

 

山間部の地形に沿って蛇行する太田川の、その山を貫く改良された国道191号線のトンネルの手前、おそらく旧道と思われる側道を入ったところにあった安野駅。

 

ここから乗っていけそうな、今でも走っているような雰囲気。ここも国鉄からJRへ転換期の当時の様子がそのまま残されていました。転換期前後の全国のローカル線はその後、存続・廃止・第三セクター化など様々な運命が待ち受けていましたが…

 

この可部~あき亀山間の復活に見る、机上計算で済ませるお堅い国鉄時代にはあり得ない、JRによる廃止路線の復活という柔軟性は評価できるも、廃止当時、ある程度需要は見込める区間であっても系統分離される可部駅を境に一度はスパっと切り捨ててしまったところ、国鉄の体質がJRになってもなお続いているような気がしました。

 

(2017年12月31日)