昨日の続き。今日は西脇に行く日である。せっかくなので、私鉄を乗り継いで行ってみよう。今日の行程は、朝7時ぐらいにホテルを出て、心斎橋から地下鉄に乗り、梅田まで行き、

大阪梅田→新開地(阪急電鉄)

新開地   →粟 生(神戸電鉄)

粟 生   ⇄北条町(北条鉄道)

粟 生   →西脇市(JR加古川線)

と言う具合である。

 

 

梅田から阪急神戸線の特急、神戸新開地行きに乗る。これは関西特有だと思うのだが、正しい駅名は「新開地」なのに「神戸新開地」とアナウンスしたり、逆に近鉄では「大阪難波」なのに単に「難波」とかしか言わなかったりする。分かりやすいんだが、分かりにくいんだか。

さて、阪急の電車、車体は落ち着いた栗色に塗られ、屋根周りは無骨な機器類を隠すためのカバーがかけられて白色に塗られ、そして、ピカピカに洗車されている。車内は木目調の壁と、オリーヴ色で肌触りの良い座席。車内の蛍光灯にはカバーがかかり、床は石畳をイメージした模様がついている。なんて高級感溢れる、上品な電車であろうか。関西の私鉄はどこも素晴らしいが、阪急電車は特に素晴らしい!僕は感動のあまり泣いた。関東のとりあえず人を運べればいいと思ってる、詰込み主義の社畜運搬列車とは大違いである。

(9本の線路が並ぶ梅田駅。本当に素晴らしい。ホームの床もピカピカである)

 

梅田を発車し、淀川を渡る。この区間、京都線、宝塚線、神戸線の3複線になっており、今日は運良く3方向の列車が同時に発車、並走する姿を見ることができた。また僕は泣いた。

 阪急もまた、関西の鉄道らしく速度も速い。僕は運転席の後ろに座っていたが、住宅地の中を最高速度115km/hを維持したまま疾走してゆく。また泣(ry

新開地からは神戸電鉄に乗る。神戸電鉄は神戸の新開地を起点とする私鉄で、僕はこれの粟生線に乗って、終点粟生まで行く。

神戸の急斜面を上り、非常に平凡な景色を眺め、1時間強で粟生に着いた。

このまま西脇に行くと早く着きすぎるので、粟生から出ている北条鉄道という路線に乗り時間をつぶすことにしている。北条鉄道はいわゆる「盲腸線(終点がほかの路線と接続していない路線の俗称)」なので、終点の北条町まで行き、また戻ってきた。さすがに帰りは退屈した。

粟生に戻り、ここからはJR加古川線という、おそらくJRの路線の中でもトップ5ぐらいで地味でつまらない路線を加古川に沿って北上し、西脇市着11時30分。駅前にちょうど僕の父が迎えに来た所だった。13年ぶりに来た西脇市駅は、記憶と全く違っていた。おかしいな。

 

車で西脇の家に行く。僕の祖母の生家で、今は祖母の弟(つまり大叔父さん)とその奥さんが二人で住んでいる。

実は、この家は元々播州織の生産をやっていた家で、とんでもなく広い。日本家屋の2階建ての母屋のほか、離れ、蔵、畑、そして工場まであるという感じである。僕の祖母の祖父にあたる人が工場を始め、そして糸を巻く過程で何か特許を取って財産を築いたらしい。

 

久しぶりに会うのでとても緊張したが、よく来た、と迎えてくれる。今日はその家の息子さん(つまり僕の父のいとこ)とその家族も遊びに来ていた。その家の子ども(つまり僕のはとこ)はまだ2歳と0歳とのこと。はとことは、数えてみたら血族6親等。限りなく赤の他人に近いけれど、でもやっぱり親戚である。

 

お昼にはすき焼きを食べさせてもらった。デカい家なので、もちろん出てくるすき焼きの量もとんでもない。牛肉だけで2㎏以上、しらたきはどんぶり1杯ぐらいあった。白菜は裏の畑で取れるので無限大に出てくる。「遠慮せんといて!もっと食べてな」と、たらふく食べさせてくれる。

 

ご飯の後は墓参りに、車で10分ぐらいの町はずれの寺に行く。墓参り用の道具一式が入った風呂敷包みが常備されているのが、やはりこの家のすごいところである。僕の曽祖父母や、もっと先祖の墓である(曽祖父母は僕も子供のころ会ったことがある)。今年は8月に一人で伊予に行ったり、9月にも河口湖にある墓に行ったりしたので、墓参りばかりしているが、行けてよかったなあと思う。僕は結構、親戚や先祖のことが好きだし詳しい。

そういえば、さっきお昼ご飯の時にも、僕の大叔母さんが「やっぱり孫がたくさんおったり、みんな遊びに来てくれたりすると嬉しい」と言っていたし、最近は親戚付き合いすることも減る時代だけれど、家族や親戚とは素敵なものだし、大切にしたいと思った。(ただし21歳彼女居ない歴=年齢童貞)

帰りは西脇の市内を少しドライブして、重要文化財にも指定されている西脇小学校などを見せてもらった。

 

その後、父が播州織のシャツを作りに、店に行くというので、僕もついていく。僕のも一着作ってくれることになった。オーダーシャツなので採寸したり、生地やボタンや襟を選んだりする。お値段は…なんと13000円。ひー。だがもし東京で買ったら数万円、下手したら何十万らしい。

 

(店にあった50年ぐらい前の織機。先染めされた糸を縦と横から編んでいく。ガチャガチャガチャ…とすごい音を立てて機械が動くのだが、最盛期は1回の「ガチャ」で1万円儲かった、いわゆる「ガチャマン景気」だったとか。)

 

(播州織工房館の外見。こういう古い家並みが残っているのも西脇の特徴である。いろいろ旅行して思うのだが、関東だと、戦前の建物ですら結構貴重なところがあるが、西日本は古い家や寺がいくらでも残っているような気がする。)
 

そのあとはまた家に戻り、工場のの中などを見せてもらった。工場自体はもう使ってないけれど、建物はまだ残っている。半世紀以上前はこの工場で出稼ぎの女工さんたちが働いていたのだという。

それから、廃止になったJR鍛冶屋線の廃線後から盗んできた貰ってきたポイントの転てつ器、信号カンテラ、レール、犬釘(レールを枕木に固定する釘)、「鍛冶屋ー野村」と記されたサボなどが置いてあった。「おじさん、鉄道のカンテラがあるって聞いたんですが今もありますか?」「あるで!なんなら一個持って帰るか?」

また、畑にはキャベツ、レタス、白菜、唐辛子、じゃがいも、柿、ショウガなどが植わっていた。後はしいたけの原木や、烏骨鶏も飼育されていた。作物は売ったりもしているらしい。家が大きいと何でもできる。本当に羨ましいです。都会暮らしがみじめでなりません。死にたいです。

 

17時前に西脇の家を後にする。13年ぶりの西脇は、とても良かった。久しぶりに親戚に会えたし、大人になってから西脇の家や街を眺めたのも色々面白かった。また来年も行こう。

ここから川崎の自宅まで車で帰る。ガソリンを入れ、滝野社ICから中国道に入り、新名神、渋滞を回避するべく京滋バイパス、また新名神、伊勢湾岸道、そして東名を経由。

僕は非常に申し訳ないことにまだ仮免すら取ってないので、運転は父親で、助手席要員である。寝ほうけてたら悪いと思い、出来るだけ起きて父親と話した。「西脇の家は広くていいなあ…都会に住んでたら病気になるわ…」

少し混んでいた所もあったが、まあ概ねよく流れていた。免許取ったら今度は自分で運転して西脇まで行こうと思う。途中、社PA、土山SA、日本坂PA、足柄SAの4箇所で休憩し、川崎市内の家に着いたのが翌日の1時45分。割とホンマに死ぬかと思ったで(エセ播州弁)。