1歳の息子と過ごす日々はスピリチュアルな学びに溢れています。

 

息子が時々お世話になっている託児所は、面白いことにオフィスビルの中にあります。送り迎えの際に毎回2台並んだエレベーターを利用するのですが、子供は大抵ドアが開く方に立って待っています。
大人は電光板でエレベーターの動きを予測して決めますが、歩き始めの子供の視界は下の方ばかりですし、仮に見てもエレベーターの階数表示なんて何の意味も持たないでしょう。

 

他のお子さんの様子を見ていても、やはり電光表示とは無関係に先に開くドアを予測してその前に立つのを見て、改めて「子供の予知能力は確実だなぁ」と感心します。

託児所の皆との楽しい時間を過ごすために向かう時や、迎えに来た母親と一緒に満ち足りた気分の笑顔で帰る時のリラックスした状態ならば、自然と予知能力が働く状態にあるのです。

 

ところが「もう、はやくしなさい!」「そっちじゃないわよ!」などと怒鳴られて緊張を強いられた場合、子供はどういうわけか開かない方のドアの前でウロウロしている傾向があるようです。

 

これからもわかること、それは誰もが生まれながらにして予知能力を当たり前に有しているということです。
ですが学校でも会社でも大人が創り上げた社会においては「恐れを回避するために緊張を強いられ続けることが大人になることである」というストレスに年中晒されているうち、否定的な波動の方が当たり前となってしまい、リラックスして楽しく過ごすことが稀になってきます。

 

それに比例して有していた予知能力を失うばかりでなく、始終心配事に囚われて抜け出せなくなり、私もかつてはそうだったように多くの人生が苦痛に満ちたものとなってしまうのです。


誰もが縮こまることなく、そのままの姿を祝福して受け容れてくれるような家庭や社会環境で成長できたのなら、種類はまちまちでも誰もがいわゆる「超能力者」として等しく魂を輝かせて生きることが可能なのです。