6月×

 

ギックリ腰になった。

なので、文化センターの講義を座って行った。

座っての講義は初めてのことだったので、

生徒さんに釈明しておいた。

 

いざ始めてみると、

立ったり座ったりが面倒になり、

いつものように立ち上がってそのままやり切った。

 

「センセイが立ち上がったので心配しました」と

生徒さんが講義のあと話してくれたが、

やはり心配かけたようだ。

 

心配はかけたが、

しっかりと1時間半つとめた。

今日から新しく一人加わったので、

教室が狭く感じられたが、

実は教える側としては熱気が感じられて楽しい。

 

先週末に左の基堂の糸イボをとったせいなのか、

周囲の評価に対する不要な懸念が消えたと思いたい。

 

 

6月×

 

朝早くからラインが続いた。

送ってきたのは、Мさん。

 

数か月前に「好きな人ができた」と相談に来た。

そのときに話を聞いた限りでは、

Мさんのどうも独り相撲らしく、

相手の男性は事務的な対応をしているとしか考えられない。

 

しかし、恋と云うのはだいたいがこうしたものだ。

勘違いから始まるのだから始末に負えぬ。

 

このとき確かタロット鑑定をした。

どんな結果だったか記憶はないが、

Мさんのメールを読んで思い出した。

この日、日記にこう書いた。

 

《…。

聞いたときにこの話には「脈はない」と思ったが、

タロットをしたら「世界」が出た。

こういう場合は注意が必要で、

世界だから相談者の思い通りになる、

と云うわけではない。

 

たとえ相手に自分の意が通じなくとも、それはそれで良しとする。

それが世界の解釈でもある。
 

自分の考えているような相手ではなく、

たとえばこんなケースもないわけではない。

 

ホテルに同伴したら即刻首を掻き切るような男だとしたら、

付き合わなくてよかった、と云うことになる。

しかし、掻き切られることが当人にとってhappyならば、

それはそれで世界は大正解のカードである。


 

ま、当人も「平和裏に終わったので世界だったのですね」と

納得していたので安心ではある。

 

こうした場合、いつも思うことがある。

 

躊躇なく突き放したような鑑定助言ができなければ、

占い師でない。》

 

 

だからわたしは、知人身内の占いは

なるべくしないようにしている。

ただ、当人に決して知らせないという条件を課したときのみ、

卜占する。

 

 

6月×日

 

教え子からの質問があったので

「一人一派」と答えたことがある。

 

占い師は流派も宗門もない、

ということだ。

 

わたしは高島易断の宗家の易断結果とその解釈を

読んだとき、己と随分径庭があることを知った。

安岡正徳師の易断然り。

 

たとえ卜占の師と仰ぐ人々の解釈でさえ、

己の腑に落ちないことがあるのはこれは仕方のないことで、

このことをさして「一人一派」と自負するのだ。

 

決して己の道が唯一無二だというつもりはない。

無双であるなどと大言壮語するつもりもない。

 

卜占は永遠の求道みたいなもので、

敢えて政治的な用語を使うならば

果てしなきユートピアを求める「永久革命」みたく

考えてはいる。