Good Morning OKINAWA ~設計事務所の事情 うらじゅん(沖縄編)Ⅱ~

2012年9月5日HP改装しました。


 http://www.jun-associates.com/


2015年6月23日 設立して20周年を迎えました。


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今から20年ほど前のこと。
独立をし、事務所を開いて順風満帆な頃のことだった。
週明けの月曜、こういう手紙が届いた。
「いろいろお世話になりました。借りていたものはこういう形で精算をお願いします。今後のご発展をお祈りいたします。」というような内容のもので、週末に事務所に届いていた手紙だということを確認し、僕はYが住む千葉へ、取るものも取らず新幹線に飛び乗った。
彼の自宅へ着いたときは、すでにすべてが終わっており、小さな箱に入った「Y」が黙って僕の前に座っていた。

独立をする前から、酒を飲んだりバカ話をしたりで、そして僕が独立をする際には、当時構造設計に欠かせないPC関係機器を東京の彼の事務所から僕と二人で神戸までライトバンで運んでくれた、という友情を惜しみなく僕に与えてくれたYだった。
そして独立をしてから23年目を迎える今日4月19日は彼の命日でもある。
近くのスーパーで買ってきた安物のチリワインではあるけれど、陽が沈みかけている空が見えるバルコニーでふたつのグラスにそのワインを注ぎ込み、
「Yさんよぉ、おかげで今までいい仕事することができたよ。これからもまた頼むぜ」
と彼のグラスに、僕が持ったグラスを当て久しぶりの乾杯をした。

「あれ?まだ飽きずに仕事してたんですね」
と透き通った春の空気の中で、耳元でそういう風に言われたような気がした。

 

 


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中学3年生の頃だったと思う。
当時、ギターが上手だった「紀一郎」君とイントロのギターのカッティングがすげえいいな、と話しながら二人で公園でガットギターをかき鳴らしていたことをふと思い出した。
その紀一郎も数年前に亡くなり、そして今日、そのはしだのりひこ氏が亡くなった。
彼のいわゆる「ちりめんぶるい」なビブラートは好きではなかったが、その音楽性は当時はとても好きだったな。


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東京の友人が社内旅行で沖縄へ来てくれた。
スタッフで沖縄が初めてだという「イーチャン」(仮名ね)に、
「沖縄の感想はどう?」
と聞いたところ、
「思ったより都会ですね~!」
彼女が想像していた「オキナワ」はこうだった。
交通手段は「水牛」(おいおい!)
どうやら竹富島の観光用写真でアップされている牛、が現実だと考えていたようで、車やバイクが当たり前に走っているということに驚いた、と沖縄そばにコーレーグースーをたっぷり振りかけながらそう語ってくれた。
確かに、作家の百田尚樹氏などは「沖縄でネット出来るんか?」などとつい最近語っていたので、例えば、大阪では電車に乗っていてもすぐに見知らぬ人同士で掛け合い漫才が始まるんだ、とか朝食はタコ焼きだ、などと思い込む人もいるので、まあこういうものだな、とオジサン、そういう話を微笑ましく聞いていた。
せっかくだから、12月くらいまでは半袖のかりゆしのシャツで過ごせるくらい暑いので、年末まで「冷やし沖縄そば」がありこれがまた美味いんだ、などと教えておけばよかったかなと思った。こういう話をすれば、そうなんだぁ、じゃあ今度は冬場に沖縄へバカンスに行こうかな、と思うじゃありませんか。これくらいの「嘘」も旅を楽しむにはちょうどいいと思いますね、ハイ。

午前の税理士さんとの打ち合わせで、身の丈186cmの北海道出身の担当者は半そでかりゆしだった。
「まだまだ暑いもんね」
と言いながら、沖縄市のとある審査機関へ行き扉を開けたら、半そでかりゆしがまだ幅をきかせていた。
年末はひょっとしたら「冷やし沖縄そば」が食べられるかな、とそう思い返した11月もすでに後半のとある日曜日だった。

※東京の「イーチャン」(仮名)へ
 ま、そういうことなので今夜もまだクーラーつけてちょうどいいくらいですよ。また沖縄へいらっしゃいね。お待ちしておりますので。

 


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僕の真正面で「イカ墨ソーメン」を食いながら、喩えて言えば「昔のコソ泥の典型」のように口のまわりを真っ黒にした男が、僕の前に運ばれてきた「ポークたまご」に強い視線を送ってきた。

大学時代の東京の友人と、「ここ」へ来る前に牧志駅前の沖縄料理店で少しばかり腹を作り、そして「ここ」へ足を向けた。
広い空間にいろんな店がごちゃっと集まった、台湾の故宮博物館そばの屋台街を彷彿とさせるような、そういう場所のとある店の広いテーブルの一角に腰を下ろし、オリオン生を注文した。
テーブルの向こうで5人ほどの男女が食事をしており、そのうちの口のまわりが真っ黒になった男は、その口にへばりついたイカ墨を手で拭いながら茹でたカニを口に放り込んでいた。
「広東語だな」
「あれ?オガワちゃん、中国語わかるの?」
「中国人だな、というより、そう言った方が、アジアの異国の地の食道でメシ食ってるって気になるじゃない。気は心だよ」
「それにしても日本語聞こえてこないよな。店員もあいつらと中国語で話してるし。」
「まあ、それはともかく、ヤツラ食うね、また鍋が出てきたぞ。カニなんかもう目の前で山になるくらい食べてるのにさ、食うよな。で、それだけ食ってて、どうして俺たちの目の前のポークたまご羨ましそうに見てるんだろうな?」
冷えたオリオンをのどに流しながらそう言った。
もう一品注文したのが、「もやしチャンプル」だったが、これにも彼らの視線が集中した。
「結構腹いっぱいだから、よかったら食べてみる?」
日本語で言ってみたが、フンと顔をカニに向けながらふたたび無言で食べ始めた。
「こういう場所で、コミュニケーション図ることができるのも沖縄ならではだよ。」
「で、オガワちゃん、このポークたまごってそのまんまなんだけど、美味いの?」
「これは沖縄では定番で、沖縄に来てこれ食べないともぐりアルヨ、アナタ」
「あれ?オガワちゃん言葉おかしくなってない?」
というほどに広い雑多な店内には甲高い「広東語」と思われる言葉で溢れかえっていたのである。

 

国際通りにある第一公設市場がそろそろ閉まりかけの時間になっても、2階にある食堂街は食欲で溢れかえっていた。
味は、美味い!(入った店が良かったのかも)
興味がある方は一度、広いテーブルでイカ墨で口を真っ黒けにしてみたらいかが?

(那覇は国際通りにある第一牧志公設市場です)

 

 


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大正11年生まれの父親は、この3月で94歳になる。
耳が聞こえにくい、というところ以外身体はいたって健康で、冬でも裸足で靴下を履かないスタイルは今も変わらない。
その父とは1年に一度神戸に帰った時に時間のある限り話をすることにしている。まあ耳が聞こえにくいゆえ、筆談と伊賀忍者の末裔である祖母の次男であるがゆえに読唇術に長(た)けていることで会話に支障はない。

昨年の6月に広島は呉(実際は江田島市)にある江田島兵学校へ行った際に、大東亜戦争時での特攻隊員の写真と彼らの手記を読んだ。当時17歳から20代半ばくらいの人たちの国を思う気持ちと、そして家族を思う気持ちが丁寧に書かれており、年代で言えば父の少しばかり下、つまり大正12年以降の人たちが特に多かったようで、このことについても話題に上がった。
父の場合は、目が悪かったのと時期がずれたことが幸いしたとのことだが、当時は戦争下ゆえ常に覚悟はしていたとのことだった。
国のためだとはいえ、死への葛藤ということに対し筆舌に尽くしがたいものがあったというのも事実だが、ただそれを乗り越えて彼らは飛んで行った。
「まあそういうわけで、せっかく生かしてもらったオレとしては彼らの分まで生きなきゃあならんわけさ」
(かく言う父も、戦後機雷で沈没した「室戸丸」に乗船しており、命からがら助け出されたという体験をしている。)

命がけで生きる、というのはそういうことじゃないのかな。
当時は自由というものがない中で、自分のできる最大級のことを果たしてきた若い人たちがいた。反って今はと言えば、自由をはき違えて人に迷惑をかけていることさえ気がつかずに集団で暴れまくる同年代の若い人が同じ日本にいる。
成人式会場で、でかい声で「なめんじゃねぇ!」と叫んだ20歳がいたらしいが、てめえこそ日本をなめるんじゃあねぇぞ、と言いたいね。
命までは取られないにしても命がけで生きてみろ、って言えるくらいの大人がいないのなら、こういう形だけの「成人式」なぞ必要は、ない!とはるか昔、成人式に出席しなかったオジサンはそう思います。

沖縄の成人式だけどさ、せっかくエイサーなどという素晴らしい伝統芸があるのに、集団で何かやるんだったら、そっちの方向でビシッと決めなよ。その方が目立つし、さすが「成人」だってジイ様やバア様は喜んでくれるだろうに。
これぞ「大人の儀式」だと思う。

※この項についての追記

なにも1月じゃあなくとも、家族単位でシーミー祭の時期にご先祖に報告、という儀式でいいと思うんだけどね、ワタクシは。



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散歩から帰る途中、南風原(ハエバル)の街に「こうるさいハエ」のような耳障りなバイク音が響いた。家に帰りつき、窓を開けると、この「音」が連続して響いてくるようになり、その後しばらくしてからパトカーの音が、これまたうるさく街に響き渡り、そして今もまだ続いている。
サイレン音に続いて「とまらんかい、ワレ~~ッ!」というおまわりさんの低い声がマイク越しに聞こえてくることしばし。
そうか、そうだった、今年も「アレ」だ。
年に一度のお祭りだからこればっかりはしょうがないよな、
と、沖縄に住んで7年経つとどうしてもこう考えるようになるものだ。

※と、先ほどはこう書いちゃったけど、さっきうちに来た宅急便の担当者と話をしたら、「もう沖縄だけでしょ、こんなの?恥ずかしくてね」
で、今youtubeでアップされてる動画見たら、もうね、アナタ、上に書いたこと取り消しますよ。甘いこと書いちゃったな、でも消すわけにいかないしね。以下、思うところのものを追記します。
恥ずかしいどころじゃあないね。
車には泡盛飲みながら定員以上乗り込んでる、バイクはノーヘルで二人乗り、信号無視等々、てめぇら、甘えるのもいい加減にしろ!もう全員とっ捕まえてまずは免許取り消しね、はい、もちろん全員だよ。
でさ、どうして白バイは後からそいつら追いかけてくだけなの?
その場で逮捕でしょ、こういうのって。

閑話休題(まずはひと息おいて)

「成人」というのは自分で独立して責任もって生きて行かなくちゃあいけないんだよ。「自由」の意味をはき違えないよう学校ももう少し教育したらどうなんだい?
「自由」というのは責任を伴うわけで、責任を果たしてこそ自由という権利を行使することができるわけで、こいつらが今やってることは、「人に迷惑をかけるだけ」の暴走行為なんだよ。
おっと、オジサンつい興奮しちゃって大人げなく書きなぐっちゃったけど、まあ、そういうことです。


さる年

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沖縄に仕事場を移したのが、今から7年前の12月4日だった。
仕事場兼住居は、沖縄でお世話になった方のアトリエをお借りしてのスタートだった。さてと、ここで腹くくって長丁場で仕事しなきゃな、と座り込んで考えていた時の写真がこれです。
場所は識名。那覇の東端にある、識名霊園という大きな墓地のすぐそばにある静かな街。いいところだったな。

識名アトリエ

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仕事で沖縄へ来たのが19年ほど前の土砂降りの夜だった。
那覇市内の小さな小料理屋に入り初めて食べたのが「スクガラス」というもの。
これがとても気に入ってしまい、以来、沖縄通なら海ブドウよりもスクガラスだぜぃ、と得意になっていたことがあった。
沖縄事情に少し詳しくなってくると、実は苦手な方が多いと知り、最近は注文するのを遠慮しております。

知り合いのフランス人と国際通りで会食をした際に、「豆腐よう」を指さして
「junサン、ケスクセ?(これなに)」
って聞かれたので、
「コレハチーズノヨウナモノナノデワインニハトテモアウモノダ」
と日本語で説明したら、器に入った豆腐ようの半分を箸で分けて口に入れ、しばらく口を動かしてから一言、
「コレクサッテナイ?」

彼はそれ以来沖縄へは来なくなった。

スクガラス

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「そば」といえば、そりゃあなんてったて日本蕎麦でしょ、と沖縄に来るまではそう思っていた。そして沖縄で「沖縄そば」を食べてからは、やっぱりなんてたって「沖縄そば」でなくっちゃね、と思うくらいに「沖縄そば」が好きになった。

1976年に、公正取引委員会から蕎麦粉が3割以上入ってなければ「そば」の名称を使っちゃいけない、とのお達しがあり、1997年10月17日にようやく「そば」の名称を使用しても良いと許可がでた、とのことだけどが、じゃあその間は「〇〇そば」ってお店に掲げられなかったのかな?という疑問はこの際置いといて、今日はどこで「沖縄そば」を食べるか考えている週末の朝だ。

屋宜そば

八重瀬町というところにある「屋宜家」のそばです。

屋宜そば2

落ち着いた佇まいでのんびりそばを味わうことができると思ったら有形文化財に指定されております。


屋宜そば3

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「金武町の金城さんが緊張してスーパーで金(のお米)を買った・・・」などと、宜野湾の交差点で停まっているときにラジオからこういうCMが流れ、つい、おもしろいじゃあないか!と笑ったところを、前に停まっていたオッサンにバックミラー越しに笑われてしまった、という昼間はまだ陽射しがきつい沖縄の一コマでした。

アメリカンヴィレッジ

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