子供達への案内文
寄付のお願い
クラウドファンディングはおかげさまでゴールに達し、9月8日に終了いたしました。ご支援くださった方々に深く御礼もうしあげます。
しかしながら、建立資金はまだまだ足りないのが実情です。そこで、クラウドファンディングを通じないでのご支援をお願いいたします。
振り込み銀行口座は下記でございmす。にお振り込むことによるご援助をよろしくお願いいたします。(一口千円からお願いします)
銀行 十八新和銀行
支店名 福江支店
口座 普通預金口座
口座番号 5026760
名義 大瀬崎線電信歴史継承会
お手数ですが uraあっとまーくiis.u-tokyo.ac.jp (「あっとまーく」を「@」に変えてください)宛てに、
・ご氏名
・ご住所(連絡先)
・Returnの 要 不要 (下記参照)
・小石に書くお名前 (下記参照)
をご連絡ください。
9月末までに(石を記念碑の周りに設置する関係上)ご援助いただいた方にはクラウドファンディングと同じようなReturnをいたします。
10口以上30口まで:碑の周囲に敷くこぶし大の五島の玉石にお名前記入(ペンキ)
30口以上:碑の周囲に敷くこぶし大の五島の玉石にお名前を刻印
また、期日に関係なく
50口以上:大瀬崎望楼に関する歴史資料(PDF)
100口以上:五島にいらっしゃったときに記念碑へのご案内(2026年9月末まで)
玉石に書くお名前(10文字以内、特段のご希望がなければご連絡いただいたご氏名)をメールでお寄せください。また、Returnが不要な方は、その旨をメールにお書きください。
なお終了したクラウドファンディングについては、下記をご参照ください。
https://academist-cf.com/projects/405
大瀬崎無線電信の歴史継承会
入会案内
艦見ゆ―――通信衛星も携帯電話もない時代、海上に発見した国防の危機はどのように伝えられたでしょう。
無線電信は、イタリア人のマルコーニが発明しましたが、実用化に至ったのは明治34年頃です。我が国は国境に近い五島市玉之浦町の大瀬崎灯台を見下ろす大瀬山に「海軍望楼」(最初は海岸望楼と呼ばれていました)を明治27年に設置していましたが、当時の通信手段は電線を通じた有線の電信、手旗信号や国際信号旗でした。しかしこの無線電信技術の重要性にいち早く気づき、ここに明治36年、普通火花式の36式無線電信機を導入。海上の見張りや通報などを艦船と連携して行なっていました。
それから2年後の明治38年5月27日早朝、福江島北西約90kmっを航行中の哨艦「信濃丸」がロシアのバルチック艦隊を発見し、「敵艦見ゆ」の暗号を発信しました。当時の無線装置の通信距離は、せいぜい100kmくらいでしたが、大瀬崎海軍望楼は信濃丸から近い位置にあったこともあり、これを傍受することができたのです。
信濃丸が発した電波は、対馬の尾崎湾の第三艦隊旗艦「厳島」やいくつかの仮設望楼でも受信しています。この情報は「厳島」を経由して朝鮮半島鎮海湾の戦艦「三笠」すなわち東郷平八郎 連合艦隊司令長官に伝えられ、日本海海戦の勝利に繋がるのです。
今でこそ長距離通信は身近で手軽なものになっていますが、礎となったのは、この無線電信からといえます。
歴史的な一報が発せられ、大瀬崎で受信してから120年目となる今年、先人たちの最先端技術への高い認識と先見の明を讃え、情報通信の大切さを後世に伝えていく、「大瀬崎無線電信の歴史継承会」を発足するはこびとなりました。
その活動の一環、象徴として、遠く信濃丸を見ることができたであろう大瀬崎の高台に、記念碑を建立いたします。さらに、歴史を継承する各種イベントを開催する予定です。ぜひともご入会くださり、無線電信の歴史を継承していきましょう。なお、入会金は千円(未成年者は無料)で、年会費はありません。
2025年9月
大瀬崎無線電信の歴史継承会 会 長 浦 環
副会長 清水 大基
監査役 野口 喬史
ご入会される方は
氏名、住所、電話番号、E-mailアドレス(あれば)
を、以下の3種類の方法で浦宛てにご連絡ください。
E-mail: ura@iis.u-tokyo.ac.jp
住所:853-0012 五島市長手町182-1
電話:090-1409-1626
記念碑を建立しました
2025年9月6日 記念碑を建立しました
正面からの写真です。記念碑の右側には案内板が設置されています。
記念碑の左側にみえているのは嵯峨島です。この島の左側約90km沖合から信濃丸が「敵艦見ゆ」の暗号を無線で発信しました。碑文は、五島高校を2025年3月に卒業して現長崎大学一年生の錦織亜柚さんに揮毫していただきました。
下図は、石碑の裏面です。上部に信濃丸のシルエット、下部に海軍望楼のスケッチ、そして真ん中に碑についての解説です。
記念碑除幕式での配付資料
1P 明治27年、明治天皇は、勅令第77号で海岸望楼の設置を公布しました。
それを受けて、明治27年8月8日大瀬崎海岸望楼は通信を開始しました。
最初に設置された海岸望楼は、図のように分布しています。
下部左の図は、大瀬崎海軍望楼の平面図です。原図はSouthUpですが、NorthUpに書き換えています。左側(西側)から、アンテナ、信号竿、見張所および仮通信室がある丘の上、その北側で丘の下にある宿舎、その右側(東側)に発電室、さらに右側に逓信省が設置予定のアンテナが立つ丘、が描かれています。
下部右側の写真は、逓信省がアンテナを立てる予定の丘から撮影された見張所とアンテナ竿です。
2P 右側の写真は、当時使用されていた三六式無線機。「三六」とは明治36年に開発した、という意味です。横須賀にある「三笠」に転じされています。
左側は信濃丸を含む第三戦隊の戦闘詳報です。4時45分からの通信の記録が記載されています。
無線信号は、暗号です。最初に発信された暗号は「ネ」で、「敵の艦隊らしき煤煙見ゆ」という意味です。次に位置をしめす「タ」と「203」、その次にバルチック艦隊の進路を示す「ヒ」が送信されます。203は海域に予め描かれたグリッドの番号です。それら以外の暗号も準備されていました。
下の図は、日本海海戦時に設置されていた海軍望楼の位置です。台湾から朝鮮半島にかけて多くの望楼が設置されていたことが分かります。
3P 信濃丸の立面図です。日本郵船の貨客船で、徴用され、船首と船尾に大砲が取り付けられています。
下図は、信濃丸を中心に、大瀬崎海軍望楼、第三艦隊旗艦「厳島」、および「三笠」が、当日の5時ごろの位置を示しています。大瀬崎海軍望楼と信濃丸の距離は約90kmで、三六式無線機の最長通信距離ぎりぎりの距離です。三笠は遠くて、信濃丸の通信を聞くことができず、厳島からの転送で情報を得ていました。
4P 大瀬崎海軍望楼への通信経路の想像図です。大瀬崎海軍望楼から福江までは電話線が敷かれていました。また、福江島から長崎までは明治26に海底ケーブルが敷設されていました。また、九州本土には電話回線網が敷かれ、対馬を経由して三笠が停泊している鎮海湾まで通信線が敷かれていました。多くの中継局を経由した通信は、相当の時間がかかったものと考えられます。
下の左の図は、記念碑の表面と裏面です。碑文は、五島高校を2025年3月に卒業し、長崎大学教育学部に在学している錦織亜柚さんに揮毫をお願いしました。裏面は、上から信濃丸のシルエット、建立の趣旨、そして下に大瀬崎海軍望楼の線画です。線画は、1Pの写真から写しました。
下の右側の写真は、碑の説明板です。その下に、お礼の文章が続きます。
記念碑の建立へのご支援のお願い
記念碑を製作、建立するために、クラウドファンディングを始めました。よろしくご支援ください。
https://academist-cf.com/proje
なお、下記の銀行口座へも直接振り込むこともできます。
銀行・支店名 十八新和銀行・福江支店
口座 普通預金口座
口座番号 5026760
名義 大瀬崎無線電信歴史継承会
お振り込みくださった時には、
お名前、連絡先(住所、電話番号、E-mailアドレスなど)
を
ura@iis.u-tokyo.ac.jp
にご連絡ください。
建立する記念碑の概要
建立の予定の記念碑は、高さ2.1m幅45cmの石柱で、五島市椛島の柱状節理です。碑文は、五島高校卒業生に揮毫していただきます。
建立場所は、大瀬埼灯台へ至る道の駐車場から登ったところです。
丘の上からの見晴らしは素晴らしく、嵯峨島、玉之浦湾、大瀬埼灯台、そして運が良ければ男女群島も見えます。
記念碑の建立の許可証
2025年7月9日、建立の許可がおりました。
除幕式は2025年9月6日(ポーツマス条約締結の日の翌日)土曜日10時からおこなう予定です。皆様、お集まりください。
敵艦見ゆーーー通信衛星も携帯電話もない時代、海上に発見した国防の危機はどのように伝えられたでしょう。
2025年4月9日
2025年5月10日修正
2025年7月24日修正
無線電信は、イタリア人のマルコーニが発明しましたが、実用化に至ったのは明治34年頃です。わが国は国境に近い五島市玉之浦町の大瀬埼(注1)灯台を見下ろす大瀬山に「海岸望楼」を明治27年(のちに海軍望楼と改名)に設置していましたが、当時の通信手段は電線を通じた有線の電信か、手旗信号や国際信号旗でした。しかしこの無線電信技術の重要性にいち早く気づき、ここに明治36年、普通火花式の三六式無線電信機を導入。海上の見張りや通報などを艦船と連携して行なっていました。
それから2年後の明治38年5月27日早朝、福江島北西約90kmに航行中の哨艦「信濃丸」がロシアのバルチック艦隊を発見し、「敵艦見ユ」の暗号を発信しました。当時の無線装置の通信距離は、せいぜい100kmくらいでしたが、大瀬崎海軍望楼(注2)は信濃丸から近い位置にあったこともあり、これを傍受することができたのです。
信濃丸が発した電波は、尾崎湾の第三艦隊旗艦「厳島」やいくつかの仮設望楼も受信しています。この情報は「厳島」を経由して朝鮮半島鎮海湾の戦艦「三笠」すなわち東郷平八郎 連合艦隊司令長官に伝えられ、日本海海戦の勝利に繋がるのです。
今でこそ長距離通信は身近で手軽なものになっていますが、礎となったのは、この無線電信からといえます。
歴史的な一報が発せられ、大瀬崎で受信してから120年目となる今年、先人たちの最先端技術への高い認識と先見の明を讃え、情報通信の大切さを後世に伝えていく、「大瀬崎無線電信の歴史継承会」を発足するはこびとなりました。
その活動の一環、象徴として、遠く信濃丸を見ることでができたであろう大瀬崎の高台に、記念碑を建立したいと考えています。
除幕式は信濃丸からの信号を受信した同日同時刻の2025年5月27日、早朝4時45分におこなう予定でしたが、国からの建立許可が間に合わないことがわかりました。5月27日早朝4時45分は、記念の集会を現地でおこないます。
記念碑の建立は、ポーツマス条約締結から120年の9月5日に行いたいと準備を進めています。。
記念碑の銘は、「敵艦見ゆ」を予定しています。
大瀬崎無線電信の歴史継承会
会長 浦 環
副会長 清水 大基
監査役 野口 喬史
注1)灯台名は「埼」で、地名は「崎」としています。灯台は海軍、陸上の地図は陸軍の所掌であったことに由来すると聞いています。
注2)公式文書には大瀬崎海軍望楼という記述もありますが、正式名称は大瀬海軍望楼です。ここでは、親しみやすい「大瀬崎海軍望楼」と記述します。
下記は、碑にそえる説明文案です。
電波を受信しtが海軍望楼のアンテナと見張所、発電所、宿舎など。撮影時期は不明です。
#大瀬崎
#海岸望楼
#日本海海戦
#敵艦見ユ
#信濃丸
電波を発信した信濃丸
無線電信の発信記録ーーー「信濃丸」からは3つの暗号信号が発せられました。「203」という位置は必ずしも正確でなく、後に「和泉」が発した「225」の方がより正確であると考えられています。
通信電文の例ーーー対馬の最南端にある仮設望楼「神山(こうやま)」が大本営軍令部長へ転送した『ヒヒヒ「yr」』の電報送達紙。ヒヒヒは先の表にある「敵艦隊東水道ニ向フ如く見ユ」、yrは「信濃丸」の暗号。大瀬崎海軍望楼に関して、このような記録は残念ながら失われているようです。なお、送達紙に、当初は暗号だけの記述のみが書かれていて、後に暗号を知っていた誰かが訳文を書き加えたと考えられます。

















