リオ五輪閉幕/吉田沙保里よ堂々胸を張れ!/ わが心のキックボクサー⑫協同ジム/他 | 舟木昭太郎の日々つれづれ

リオ五輪閉幕/吉田沙保里よ堂々胸を張れ!/ わが心のキックボクサー⑫協同ジム/他

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[随感]リオ五輪閉幕
 ~困難に立ち向かったリオ組織委員会~
 ~開催も危ぶまれた~
[五輪]400㍍リレーは世紀のアップセットだ
 ~日本式改善がもたらした銀メダル~
[五輪]吉田沙保里よ、堂々胸を張れ!
 ~吉田、汝を貶める事なかれ~
 ~後進の指導をする使命~
【特別連載】わが心のキックボクサー⑫協同ジム
 ~鉄腕・錦を擁してTBSに迫った~
 ~多彩な選手でリングを飾った~

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随感]リオ五輪閉幕

 
困難に立ち向かったリオ組織委員会

 

遠足の日を待ちわびる少年の心と似て、いざその日が来てしまうと、あっけなく過ぎてしまう。リオ五輪も、矢のように過ぎた17日間だった。
日本にとっては実りのあるオリンピックだった。史上最多41個のメダル総数はいうまでもないが、日本では日陰の花のようなカヌーと競歩でともに銅メダル、バトミントン女子ダブルスでは、金メダルと目を見張らせた。今後これらは競技人口が増えるだろう。4年後に力強い味方だ。


五輪旗の引き渡し式では、雨の中、バッハIOC会長から小池東京知事に五輪旗が渡され、大きく軽やかに5度6度と振った。4年後2020年、東京五輪は待ったなしだ。消去法でいけば都知事は、小池百合子女史で正解だったかな。雨の中、和服姿が凛としていた。見栄えがした。
 

 
開催も危ぶまれた

 
リオ五輪は、デモや競技施設の遅れ、はたまた大会直前にはルセフ大統領の弾劾裁判など次々に問題が噴出、大会の開催も危ぶまれた。  

 

選手村宿舎に一部不具合があったり、プールの水が緑色になったり多少はトラブルがあったが、私が心配したようなテロや突貫工事での競技場の建物が崩れる、といったこともなく大会が終了した。目出度し。  

 

ブラジル五輪組織委員会は見事困難に挑戦して、立派に成し遂げた。競技は、時間に正確で「時間にルーズなブラジル人」を想像していた外国関係者を驚かせたという報道もある。ブラジル観が変わった?  

 

巨大イベントを成功させたことで、ブラジル国民は有形無形の誇りと自信を持ったことだろう。サッカーが国技みたいな国だから、自国開催でブラジル代表が金メダルだったのはご同慶の至り。  

 

PK戦になり、最後ネイマールがキッチリ決めたときは、我事の如く胸を撫で下ろした。さあ、次は東京だぜ、用意はいいか。
 

 
[五輪]400㍍リレーは世紀のアップセットだ


日本式改善がもたらした銀メダル

 

日本のメダルラッシュに沸いリオ五輪だけれども、私の一番印象に残るにはやはり、男子400㍍リレー決勝だったね。  

 

日本も驚いたが、外国人からしても、信じられない出来事だったと思う。小国が大国を下したと世界を驚愕させた日露戦争みたいなもので、世紀のアップセット(番狂わせ)だよ、あれは。  

 

ノーマークの日本選手が、アメリカを抜き去って、突然2位に躍り出たのだから、それは吃驚だ。100年経ても勝てないと思っていた相手を抑え、あの最速の男ボルトに食い下がったケンブリッジの走りには、鳥肌が立った。  

 

報道などによれば、予選を全体の2位、37秒68で通過したが、この数字ではメダルに届かない、と選手たちは判断、バトンパスの位置を微調整したという。この結果2秒97短縮、バトンパスの技術で銀を手にした。何とも日本人らしい、緻密な作戦だ。  

 

なにやら、トヨタのコストダウン「改善」を思わせる。絶えず「改善」。小国が大国に勝つために、我々の先達は、戦争であれ、経済であれ散々腐心してきた。リオの400㍍リレーは、日本人の改善の叡智がもたらした銀メダルではないのか。
 

 
[五輪]吉田沙保里よ、堂々胸を張れ!

吉田、汝を貶める事なかれ

 

レスリングの吉田沙保里は、決勝で負け4連覇を逃した。「取り返しのつかないことをした」と号泣、何とも痛々しかった。記録は破られるためにある。吉田よ、汝を貶(おとし)める事なかれ。汝は16年間女子レスリングを牽引してきた。その功績は燦然だ。堂々胸を張れ!

 

人は衰えるものだ。秋山政司さん(日本ライト級19度防衛=報知新聞記者、故人)が私にこんなことを漏らした。「ボクサーというものは、いつでも自分が一番良いときのことしか頭にないんだよ。あと1㌢、避けていれば奴のパンチを喰わなかった、と悔やむんだ。それが分っていても、出来なくなるのが衰えというやつなんだが。」
 

 
後進の指導をする使命

 

ヘレン・マルーリス(米)との53㌔級決勝戦。見ていて、どうも吉田の動きが緩慢で、いつもの切れがない。先手先手と攻められて、切り返しの反撃がない。 なるほど、秋山さんが言ってたのは、これなんだ。脳が指令を出しても、身体が素早く作動しない、これこそが吉田の衰えなのだ、と感じていたら、ずるずると敗戦の道を辿った。  

 

盛者必衰。吉田沙保里も33才、4年後を狙うには些か体力的にも限界だ。引退して更新の指導に当たって貰いたい。  

 

女子レスリングの五輪種目を見据え、世界に先駆けて選手育成に取り組んだアドバンテージも、そろそろ効力がなくなり、外国勢の進出、活躍も顕著だ。吉田には女子レスリング王国を死守する使命がある。

 


【特別連載】わが心のキックボクサー⑫協同ジム

鉄腕・錦を擁してTBSに迫った

 

68年(S42年)、日本テレビがTBSに負けじとキックボクシングの放映に踏み切った69年1月の約1年前に協同ジム創設された。協同プロモーションが興行を仕切った。  

 

ジムは水道橋の後楽園近くの旧田辺ボクシングジムが居抜で使用できた。経営の親会社は、主に外人タレント&ミュージシャンを招聘する業界最王手キョードー東京(嵐田三郎社長)。  

 

先行する野口-TBSラインに、協同-NTVはガチで勝負を挑んだから東京12チャンネル(現テレ東)、NET(現テレ朝)も色めき立って、間もなく参戦に踏み切った。キックボクシング戦国時代の夜明けだ。  

 

68年9月(後楽園ホール)が旗揚げ興行で、メーンは嵐五郎(現在、極真館の盧山初男館長)で、タイのクンスック・カチャーピチットと対戦した。嵐は同局の命運をになったが、ほどなくキック界から姿を消した。  

 

興行本部長が元大山道場(後の極真空手)出の神村栄一氏だったから、この人脈でその後も岩見二郎や曽我康行、大沢昇(12CHがキックを放映さてると、黒崎師範の関係で移籍)など、大山道場勢が加わった。

 


多彩な選手でリングを飾った

 

キックボクシングには、蹴り技をもった実戦空手が最も相応しく、即戦力となれると踏んだのである。69年1月に同局の放映がスタートすると、潤沢な予算に物を言わせて、3度のラジャダムナン遠征を敢行するなど、次第に耳目を集めた。  

 

中でも「電光回し蹴り」「鉄腕」のセンセーショナルな呼び名で、破天荒なファイトをみせた、錦利弘(協同)は、TBSの看板選手沢村忠の向うを張って人気を集めた。  

 

個性豊かな選手も集った。TBSにはない華やかさで次第にリングを飾るようになっていった。千葉元、椎奈孝、近藤一、船田真治、福島三四郎、風間健、異色の外人選手レイモンド・エドラーもいた。コロンビア大学出のインテリだった。  

 

この顔ぶれに、杉並ジムの江口和明、鶴田幸成に中京ジム片山源太、山田ジムフライング・ジャガー、増沢潔らが拮抗した。  

 

私はNTVキックを取材するのが楽しかった。協同ジムのトレーナーはダド・マリノ(比国)のマネージャー、サム一ノ瀬を兄に持つレジ一ノ瀬だった。大らかな人で、日本語が苦手な日系ハワイ人は、まだフリーの駆け出しライターを丁重にもてなしてくれた。  

 

71年6月、全日本キックボクシング・コミッション(石原慎太郎コミッショナー)は設立され、NTV×12CH系の統一王者を決めるトーナメントが始まった。この戦いで猛威を振るったのは、12CH系藤原敏男が所属目白ジムの猛威に、次々に協同の人気選手が陥落して行った。  

 

最大注目の錦利弘も、ウェルター級予選で同系列の増沢によもやのKO敗、同年11月の決定戦でも敗れてNTVは看板選手を失った。それでも同局は76年1月まで放映をつづけた。放映が中止されると、協同ジムも閉鎖されたが、実況は、あの若き日の徳光和夫アナがいた。いまや司会の巨人!  

 

私は69年から本格的なキックボクシングの取材に励み、これにのめり込んだ。キックを通して、ボクシング、プロレスと格闘技全般に興味を持った。その延長線上に、ゴング(日本スポーツ出版社)に仕事を得た。第二の青春遥かなり。

 

 

大雨の後に青空あり

 
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