トークイベントに参加くださった皆さんに感謝!!/キックボクシングの生みの親,野口修氏逝く/他 | 舟木昭太郎の日々つれづれ

トークイベントに参加くださった皆さんに感謝!!/キックボクシングの生みの親,野口修氏逝く/他

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[随感]キックボクシングの生みの親逝く
 ~野口修氏は三月に亡くなっていた!~
 ~野口氏は希代の革命児だ!~
 ~格闘技界に残した功績の数々~
[イベント]トークとオークションの午後終わる
 ~宴会を盛り上げた藤原敏男さん~
 ~五木ひろしさんの義父も参加~
 ~藤原×増沢さんの掛け合い~
 ~トークの中身はこんな話も~
 ~参加者の皆さんへの御礼!!~
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[随感]キックボクシングの生みの親逝く 
   
野口修氏は三月に亡くなっていた! 
 
キックボクシングの創始者である野口修社長が三月にお亡くなりになっていたと、7日のイベント会場で元木浩二さんより伝え聞いて吃驚した。葬儀は密葬で済ませたそうである。御逝去を悼む。
 
そういえば、野口社長からは、月に一度は電話があったのに今年一月頃からぱったりなかったから、不思議に感じていたのだ。
 
しかも最近は業界の先輩方からも、同氏の携帯番号を知りたいと、私に俄かに何本も掛かってきて、何が起きているんだろう、と私自身訝っていた矢先の訃報、残念でならない。
 
野口社長は、父親が日本ウェルター級初代王者だった野口進、リングネーム、ライオン野口でその長男として生まれた。次男に恭(日本フライ級C=野口ジム会長・故人)がいる。 
 
     
野口氏は希代の革命児だ! 

ボクシング一家に生まれ、明治大学卒業後はボクシングのレフェリーやプロモーター等を経て昭和41年4月、タイ式ボクシングにヒントを得て、キックボクシングを旗揚げした。
 
当初は「ゲテモノ」と揶揄されたが、TBSが毎週月曜7時から30分、全国ネットでレギュラー放送されるに及び瞬く間にキックは広まった。その原動力となったのは、キックの鬼・沢村忠。真空飛び膝蹴りで一躍時代の寵児となる。
 
寺内大吉の解説もまた拍車をかけた。寺内節は差し詰め野球の小西徳郎、本職が住職であり、直木賞作家ということもあり話題が豊富で、言語は耳に心地良かった。沢村を見い出し、寺内大吉和尚を解説に抜擢するなど、やはり野口社長のプロデュース力は抜きん出ていた。
 
 
  
格闘技界に残した功績の数々 

一方で、何度名前を変えても売れなかった歌手を『五木ひろし』と改名して、クラブ姫の山口洋子さんと組んでスターダムにのし上げた。「よこはま・たそがれ」は空前のヒットとなり、五木は野口修無しには存在しなかった。
 
人生は一瞬の光芒である。その生涯の評価は棺の蓋を閉じて定まる、という。故人は栄光とは裏腹に、事業の失敗で晩年は不遇な生活を送っていたが、恵比寿の古い喫茶店で会うときには、いつもダンディーな装いで現れた。
 
華奢な体躯で煙草を離さず、キックの話になると目を輝かせ留めなく話した。歴史の生き証人と二人で腹を割って語り合った、あの時間は私の大きな財産になっている。
 
長く同棲していた山口洋子さんが亡くなって、急に老けたように思えたが、心のよりどころを失って生きる力が萎えてしまったのかも知れない。享年83才、希代の革命児は、静かに土に還った。尚、お別れ会を後日開く予定だという。
 
キックが存在しなかったらK-1は生まれなかったかも知れない。空手にローキックやハイキックをもたらしたのも、キックボクシングの影響が大きい。格闘技界に野口修さんの残した功績は不滅である。
野口修死して、キックボクシングは残る。合掌。 
 
  
[イベント]トークとオークションの午後終わる 
 
宴会を盛り上げた藤原敏男さん 

5月7日(土)「舟木昭太郎トークとオークションの午後」は無事終わりました。参加してくださった方々には、すし詰め状態の中でさぞ窮屈な思いをしたかと心よりお詫び申し上げます。
 
藤原敏男さんは足首の手術前の歩行困難なときに、代々木上原までお越し願って大変有り難く御陰様で、イベントは大いに盛り上がりを見せました。同郷のいわき市から御出でになった佐藤さん、ご苦労様でした。 
 
 
五木ひろしさんの義父も参加 

大部分は元キックボクサーの中にあって、異色の参加者もいました。歌手五木ひろしの義父にあたる方で、五木さんの妻の和由布子の父親。中締めをお願したら、軽妙洒脱な挨拶のあと三本締めで占めてくれました。友達の横井社長が連れて来てくれました。
 
何でも大阪船場の繊維問屋の4代目だそうで、聞けばあの谷崎の「細雪」のモデルになった商家だったとは驚きました。私の中学時代の恩師・小瀧先生も来てくれました。
 
乾杯の後はすぐ宴席になって、初代全日本ウェルター級チャンプ増沢潔さんを見つけると藤原さんは、早速「俺の前歯は君が折ったのだから、弁償してくれよ。」と突っかかりました。二人は74年3月対戦して、藤原選手が判定勝ちしている。 
 
 
藤原×増沢さんの掛け合い 

「俺がパンチに出たところへ増沢君のハイキックが顔面に飛んできたんだ。それで前歯3本も折られた。」「藤原さんは流石に強くてあしらわれました。二度とやりたくない相手です。」と、話は笑いを交えて続きました。
 
電車のトラブルで遅れてやってきた日本人で唯一人の陸軍系ルンピニースタジアム公認レフェリー、サミー中村さんは、本場でのレフェリングの苦労を語ってくれました。もっと聞きたかった!
 
私の「70年代初頭のムエタイ暮色」の講演は、パートに小分けして、宴会の間を縫って語りました。その頃のバンコク市内は東洋のベニスと言われたように大小の運河が縦横無尽に流れて牧歌的だったたことなど。1円が7バーツの時代。 
 
 
トークの中身はこんな話も 

始めて見たカノメVSファーサイ戦に感動したこと。70年代初頭はムエタイは中量級が人気があったがそれも黄昏を迎えていた。同時期日本では、俄かにムエタイという言葉が出てきて、私もその命名に預かったこと。私は「モエタイ」を主張したことの裏話に触れた。
 
74年から79年にかけて本場のリングに藤原敏男旋風が巻き起こり、フアイトマネーが日本円で300万(現地価値で3000万相当)に跳ね上がったことなど、藤原選手の活躍がいかに本場を戦慄させたかも手短に紹介した。
 
閑話休題として、横道にも逸れて、タイには「雪」という言葉がないので、代わりに「ヒマー」と呼び、それはヒマラヤに由来していること、タイ人はヒマラヤにこそ極楽浄土があると信じていると雑学を披露した。
 
タイ国王が用いる日傘が九層になっている理由が、9(ガウ)は憑依(ひょうい=神懸かり)の数字であり、単なるラッキーナンバーではないことなどを話しました。
 
センサックがライオン古山戦で、試合時間になっても控え室を出なかったのはタイの高僧のお告げで、九に拘ったからである、とのエピソードにも言及しました。
 
タイ語の発音に濁音がないこと、例えば、味の素はアシノモト、鈴木はススキ、藤原はフシダラではなくフシワラという具合で、因みにチャチャイ(元ボクシングフライ級王者=タイ)は、チャーチャーに聞こえる等。
 
講演は面白くなくては講演じゃない、と私は痛感しているので、直接ムエタイとは関係ないことにも触れて、こちらの方が楽しかったと参加者からお褒めを頂きました。 
 
  
参加者の皆さんへの御礼!! 


熱海から参加してくれた元目黒ジムの元木浩二さんと仲間の金沢、林さん、千葉県富津からもMA日本キックボクシング連盟菅原忠幸代表、有難うございました。
 
日頃お世話になっているすっぽん「田吾作」の井上御夫妻、代々木八幡商店街竹井副会長、東京都シルバー会河原副会長、山田ジム同窓の町田、石川さん、渡辺さんご家族、ミッキー&アトム元チャンプ。
司会進行村上氏、ネット配信で助けてくれた藤本君、地元の斉藤ママ、石井会長、カメラマン熊谷さん、本当に有難うございました!!7に月またお会いしましょう!!
 
会場の『浜屋』入口に飾られた私の肖像画。

 
左から、藤原氏、私、菅原代表。


 
対戦時の話が弾む藤原氏×増沢氏。

 
 
藤原氏と私のトーク場面。


 
店の前に並んだ皆さん。別れた難い様子です。 


 

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