東京五輪の新種目枠・空手も有力候補に/大山倍達総裁の気概と矜持を/他
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■[新種目] 野球、ソフトボールに空手有力
~大山倍達総裁の気概・矜持を忘れずに~
■[唱歌] "里の秋"の誕生秘話
~戦時中の歌詞と現在の違い~
~戦火に咲いた澄み切った歌~
■[天候] シルバーウィークにしたこと
~護国寺に大山総裁と高森家の墓に御参り~
[今週の俳句もどき]
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[新種目] 野球、ソフトボールに空手有力
大山総裁の気概と矜持を忘れずに
東京五輪の新種目枠に「野球」「ソフトボール」に次いで「空手」が有力らしい。森喜朗大会組織委員長が公の場で公言したのだから間違いあるまい。正式決定は、来年の8月、IOC総会で採用種目が決まる。
目出度い話だが一抹の心配もある。極真は松井派の「極真会館」と緑派の「新極真」がありその他にも盧山初男館長の「極真館」などもあり、決まったら決まったで主導権争いで揉めないだろうか。
でルールは?「寸止め」と「型」か、所謂フルコンタクト・ルール(直接打撃)ではないと予測するが。どう対応するのだろう。
緑派は五輪に向かって早くから手を打ち、各流派を纏めて連合体を構築した。遅れたかに見えた松井派も、最大組織「全空連」(笹川暁会長)と手を結んだ。
大型提携だ、空手界が仲良くなることは結構。大山総裁がご生存なら、この時局にどう出たであろう。いずれにせよ、東京五輪の新種目に決まった暁には、極真も新極真もあるまい。文字通り空手界の大同団結ということになる。
主導権争いなどはコップ中の嵐、要はどんな事態になっても、大山総裁の気概と矜持をいつまでも忘れないで欲しいものだ。英明な松井館長と緑代表であればそんな心配は無用ということだろうが。
[唱歌] "里の秋"の誕生秘話
戦時中の歌詞と現在の違い
18日昼、誘われて渋谷区敬老大会(渋谷公会堂)に行った。二部でボニージャックスが出演するのが目当て、ナマで鑑賞するのは初めてだが、行った甲斐があった。
45分のショーだったが、歌の合間に唱歌が生まれた背景を説明してくれる。その一言が歌に深みを増した。例えば、お馴染みの「里の秋」は原題が「星月の夜」で太平洋戦争最中の昭和17年に作られたと。
なるほど調べたら、よくわかった。作詞・斉藤信夫、作曲・海沼実。戦地の慰問文として書かれたもので、従って、一、二番は現在と同じだが、三、四番になると詞も軍事色が濃い。
三番の歌詞;
「きれいなきれいな 椰子の島 しっかり護ってくださいと
ああ父さんのご武運を 今夜もひとりで祈ります」
さもあらんイケイケ進軍の時代だもん。
下が現在の歌詞;
「さよならさよなら 椰子の島 お船にゆられて帰られる
ああとうさんよご無事でと 今夜も母さんと祈ります」
と、一転、外地からの引揚者を待つ家族の心情あふれる詞に変わっている。
終戦の年の12月14日午後1時からNHKは、ラジオ番組「外地引上げ同胞激励のための午後」を組むに当たり「星月の夜」をテーマ音楽に採用。但し三番と四番の詞を変えることを作曲者の海沼に要請した。
戦火に咲いた澄み切った歌
海沼は作詞者の斉藤を呼んで、急遽、三番四番の詞を作ってもらう。題名も「星月の夜」から「里の秋」に変更した。そして、当時無名の川田正子にこれを歌わせたら忽ち大反響、1回こっきりの番組だったものが、長く続いたという。(参考資料インターネット)
因みに海沼実は、「音羽ゆりかご会」の創始者である。
もう一つ、「若葉」(作詞・松永みやお、作曲・平岡均之)は、昭和17年の国民学校四学年の文部省唱歌。
「あざやかなみどりよ あかるいみどりよ 鳥居をつつみ わら屋をかくしかをるかをる わかばがかをる」(一番)二番までしかないとても短い歌だ。
戦火のなかで、かくも澄み切った賛美歌のごとき歌が生まれたのは驚きに堪えない。勤労動員された軍国少年少女たちは、この唱歌に一時の心の安らぎを覚えたのではあるまいか。歌は世につれ、世は歌につれと申すが、何だか涙が浮かんだボニージャックスであった。
[天候] シルバーウィークにしたこと
護国寺に大山総裁と高森家の墓に御参り
先週は関東地方も雨の多い日が続いた。金曜日(18日)は珍しく日が差したら、なんと梢でミンミン蝉が一匹甲高く鳴いていた。直ぐまた夕刻雨。果たしてあの蝉は短い寿命を全うできたであろうか。
街にはコスモスが雨に揺れ、金木犀が刺激的な芳香を発散して、秋の気配はいやが上にも高まる。雨の朝、静まり返った公園を散歩したら、枯葉が晩秋のように散った。もの思う秋、雨の散歩も心に浸みる。
20日は空気が澄みきった久しぶりの秋晴れで、午後思い立って護国寺まで足をのばした。ときは秋彼岸。大山総裁と梶原先生・篤子夫人の墓参り。先ず大山総裁の墓石に水を注ぎ手を合わせた。「空手バカ一代 雲を得て龍となり 空手の父となる」石碑に刻まれた文字を読み返す。
総裁のお墓から下ると、梶原先生と篤子さんが眠る高森家の墓前に出る。講談社を正面に見る位置である。今年4月逝去した夫人の卒塔婆は、生々しさを残していた。総裁と同じように石塔に、お水をたむけた。花が絶えることなくあり、華やかなことを好む夫人に相応しいと思った。手を合わせると時が止った。
21日午後は、元日本スポーツ出版社竹内宏介社長の墓参に調布まで出掛けた。”ミスターゴング”のプロレス博士である。衝動的に会いたくなった。調布駅から「調布霊園」へのバスを間違えてウロウロした。
これがために、繁子夫人に霊園を出ようとしたらバッタリお会いした。故人がそう仕組んだのかも知れない。間違わなかったら、当然会えなかった。人生万事塞翁が馬。こうして、日頃気にかけている人の御参りが出来た。動き出した私のライフワークへの、この御三方はパワーとなる。
[今週の俳句もどき]
石塔に てふてふ睦 秋彼岸(高森家墓前にて)
こうろぎや 本に留まり 長き夜
鰯雲 鰹雲連れ 散歩哉
昭太郎
大山総裁の「空手バカ一代」の文言が彫られた石碑

高森家の墓、向って左に辞世の
「吾命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けん」の石碑。

護国寺内の水辺に咲く「まんじゅしゃげ」

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■[新種目] 野球、ソフトボールに空手有力
~大山倍達総裁の気概・矜持を忘れずに~
■[唱歌] "里の秋"の誕生秘話
~戦時中の歌詞と現在の違い~
~戦火に咲いた澄み切った歌~
■[天候] シルバーウィークにしたこと
~護国寺に大山総裁と高森家の墓に御参り~
[今週の俳句もどき]
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[新種目] 野球、ソフトボールに空手有力
大山総裁の気概と矜持を忘れずに
東京五輪の新種目枠に「野球」「ソフトボール」に次いで「空手」が有力らしい。森喜朗大会組織委員長が公の場で公言したのだから間違いあるまい。正式決定は、来年の8月、IOC総会で採用種目が決まる。
目出度い話だが一抹の心配もある。極真は松井派の「極真会館」と緑派の「新極真」がありその他にも盧山初男館長の「極真館」などもあり、決まったら決まったで主導権争いで揉めないだろうか。
でルールは?「寸止め」と「型」か、所謂フルコンタクト・ルール(直接打撃)ではないと予測するが。どう対応するのだろう。
緑派は五輪に向かって早くから手を打ち、各流派を纏めて連合体を構築した。遅れたかに見えた松井派も、最大組織「全空連」(笹川暁会長)と手を結んだ。
大型提携だ、空手界が仲良くなることは結構。大山総裁がご生存なら、この時局にどう出たであろう。いずれにせよ、東京五輪の新種目に決まった暁には、極真も新極真もあるまい。文字通り空手界の大同団結ということになる。
主導権争いなどはコップ中の嵐、要はどんな事態になっても、大山総裁の気概と矜持をいつまでも忘れないで欲しいものだ。英明な松井館長と緑代表であればそんな心配は無用ということだろうが。
[唱歌] "里の秋"の誕生秘話
戦時中の歌詞と現在の違い
18日昼、誘われて渋谷区敬老大会(渋谷公会堂)に行った。二部でボニージャックスが出演するのが目当て、ナマで鑑賞するのは初めてだが、行った甲斐があった。
45分のショーだったが、歌の合間に唱歌が生まれた背景を説明してくれる。その一言が歌に深みを増した。例えば、お馴染みの「里の秋」は原題が「星月の夜」で太平洋戦争最中の昭和17年に作られたと。
なるほど調べたら、よくわかった。作詞・斉藤信夫、作曲・海沼実。戦地の慰問文として書かれたもので、従って、一、二番は現在と同じだが、三、四番になると詞も軍事色が濃い。
三番の歌詞;
「きれいなきれいな 椰子の島 しっかり護ってくださいと
ああ父さんのご武運を 今夜もひとりで祈ります」
さもあらんイケイケ進軍の時代だもん。
下が現在の歌詞;
「さよならさよなら 椰子の島 お船にゆられて帰られる
ああとうさんよご無事でと 今夜も母さんと祈ります」
と、一転、外地からの引揚者を待つ家族の心情あふれる詞に変わっている。
終戦の年の12月14日午後1時からNHKは、ラジオ番組「外地引上げ同胞激励のための午後」を組むに当たり「星月の夜」をテーマ音楽に採用。但し三番と四番の詞を変えることを作曲者の海沼に要請した。
戦火に咲いた澄み切った歌
海沼は作詞者の斉藤を呼んで、急遽、三番四番の詞を作ってもらう。題名も「星月の夜」から「里の秋」に変更した。そして、当時無名の川田正子にこれを歌わせたら忽ち大反響、1回こっきりの番組だったものが、長く続いたという。(参考資料インターネット)
因みに海沼実は、「音羽ゆりかご会」の創始者である。
もう一つ、「若葉」(作詞・松永みやお、作曲・平岡均之)は、昭和17年の国民学校四学年の文部省唱歌。
「あざやかなみどりよ あかるいみどりよ 鳥居をつつみ わら屋をかくしかをるかをる わかばがかをる」(一番)二番までしかないとても短い歌だ。
戦火のなかで、かくも澄み切った賛美歌のごとき歌が生まれたのは驚きに堪えない。勤労動員された軍国少年少女たちは、この唱歌に一時の心の安らぎを覚えたのではあるまいか。歌は世につれ、世は歌につれと申すが、何だか涙が浮かんだボニージャックスであった。
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護国寺に大山総裁と高森家の墓に御参り
先週は関東地方も雨の多い日が続いた。金曜日(18日)は珍しく日が差したら、なんと梢でミンミン蝉が一匹甲高く鳴いていた。直ぐまた夕刻雨。果たしてあの蝉は短い寿命を全うできたであろうか。
街にはコスモスが雨に揺れ、金木犀が刺激的な芳香を発散して、秋の気配はいやが上にも高まる。雨の朝、静まり返った公園を散歩したら、枯葉が晩秋のように散った。もの思う秋、雨の散歩も心に浸みる。
20日は空気が澄みきった久しぶりの秋晴れで、午後思い立って護国寺まで足をのばした。ときは秋彼岸。大山総裁と梶原先生・篤子夫人の墓参り。先ず大山総裁の墓石に水を注ぎ手を合わせた。「空手バカ一代 雲を得て龍となり 空手の父となる」石碑に刻まれた文字を読み返す。
総裁のお墓から下ると、梶原先生と篤子さんが眠る高森家の墓前に出る。講談社を正面に見る位置である。今年4月逝去した夫人の卒塔婆は、生々しさを残していた。総裁と同じように石塔に、お水をたむけた。花が絶えることなくあり、華やかなことを好む夫人に相応しいと思った。手を合わせると時が止った。
21日午後は、元日本スポーツ出版社竹内宏介社長の墓参に調布まで出掛けた。”ミスターゴング”のプロレス博士である。衝動的に会いたくなった。調布駅から「調布霊園」へのバスを間違えてウロウロした。
これがために、繁子夫人に霊園を出ようとしたらバッタリお会いした。故人がそう仕組んだのかも知れない。間違わなかったら、当然会えなかった。人生万事塞翁が馬。こうして、日頃気にかけている人の御参りが出来た。動き出した私のライフワークへの、この御三方はパワーとなる。
[今週の俳句もどき]
石塔に てふてふ睦 秋彼岸(高森家墓前にて)
こうろぎや 本に留まり 長き夜
鰯雲 鰹雲連れ 散歩哉
昭太郎
大山総裁の「空手バカ一代」の文言が彫られた石碑

高森家の墓、向って左に辞世の
「吾命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けん」の石碑。

護国寺内の水辺に咲く「まんじゅしゃげ」

DVD『カンムリワシ具志堅用高』 第1部&第2部
DVD『日本ボクシング不滅の激闘史』いずれも絶賛発売中!!
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