人命と自己責任/山縣有朋という大元帥の評価/他
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■[拘束]自己責任の教え
~人命と自己責任~
~軽薄な行動が迷惑を産む~
■[歴史]山縣有朋という大元帥の評価
~生涯に九つの別荘を造る~
~非業の死、志士たちが浮かばれぬ~
[今週の雑学講座]
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[拘束]自己責任の教え
人命と自己責任
イスラム国が日本人二人を拘束したとして、我国に2億㌦(約236億円)の身代金を72時間の期限付きで要求した事件は、四方八方手を尽くしての救助作戦の甲斐もなく湯川遙菜さん(42)は、殺害された信憑性があると政府は申した。残念なことである。
もう一人のジャーナリスト後藤健二さん(47)は、ヨルダンに拘束されている死刑囚(サジダ・リシャウィ女史=2005年アンマンでの同時爆破事件の実行犯の一人)との交換を釈放条件にされて、緊迫した情況が続いている。全く卑劣極まりない行為で、許せない。
とはいっても、拘束された日本人二人に非が無かったわけではない。例えば湯川さんは、機関銃を手に得意気なポーズをネットに流すなど、あれは軽薄なピクニック気分に見えた。民間軍事会社の経営者だそうだが、イスラム国へ行く大義が果たして有ったのか、私は疑う。
軽薄な行動が迷惑を産む
こうした軽い気持ちが結果的に国や国民に多大な迷惑を掛けている。日本政府はこの地域を危険だとして、渡航を禁止している。禁を犯して行った。自己責任は少なくとも逃れられない。これが現実だろう。
ここは何があろうとも、情に流されることなくしっかり総括すべきだ。哀悼の言葉や同情論だけでは、これからも国が振り回されるだけだ。教訓を生かしてこそ犠牲者も浮かばれる。
後藤さんの場合「友人の湯川さんを助けるため行きます、何があっても自己責任です」との動画メッセージが流された。しかしその行動は尊くても、ジャーナリストとしてイスラム国で拘束されれば、どんな事態になるかは熟知していたはず。
自重してほしかった。欧米のマスコミ人が当地で何人も標的にされ、そして拘束され殺害された無惨な事件の数々は、いまだ生々しいのだから。
挙句アンマンの爆破事件の女と交換条件に利用され、ヨルダン政府にものっぴきならない迷惑が及んだ。それにしても、後藤さんには不可解な部分がある。やがて週刊誌等で、つまびらかにされるだろうと思うが、酷なようだけど私は敢て言いたい。美談だけでこの事件を語ってはいけないと思うのだ。
事件は昨年10月に遡る
降って湧いたような事件だが、何と事の始まりは昨年10月に遡るというから驚く。後藤健二さんの連絡が途絶えたのは、シリア入りした昨年10月末で、夫人は外務省に相談したという。その後夫人の元にイスラム国からメールが10通も届いて、結果「拘束している。身代金20億円払え。」(情報・朝日新聞)と脅迫されていたという。
ということは、政府・警察は水面下で必死で解決の糸口を探っていたことになる。総理の中東歴訪は、多分にこの事件も何かしら関係があったと今になって分かった。とは言え、勿論一日も早く後藤さんの解放を願うのは吝(やぶさか)でない。
50人のヨルダン市民の命を奪った同時爆破事件の実行犯と引き換えに、捕虜になっているヨルダン人パイロットと後藤さんの解放を公言するイスラム国。日本国とヨルダンとの板ばさみにあって最も苦慮しているのは、他ならぬヨルダン政府だろう。
どのような解決策に辿り着くのだろうか。その解決の鍵はいまやヨルダン側が握っている。大きな借りを日本国はヨルダン国に作ってしまった。今度の件で、国の名誉を損(そこな)わなければいいが、と私は危惧している。
[歴史]山縣有朋という大元帥の評価
生涯に九つの別荘を造る
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」が始まった。吉田松陰(役・伊勢谷友介)の妹・杉文(役・井上真央)をモデルにしたものだ。文は久坂玄瑞(役・東出昌大)と結婚、久坂は禁門の変で僅か24才の若さで切腹する、こうした激動の幕末維新を文は生き抜いていくのだが。
さて、ここではドラマを論じるわけではない。日本陸軍の創始者といわれる元陸軍大将山縣有朋(やまがた・ありとも1838年6月14日~1922年[大正11年]2月1日)のことを綴りたい。元老の中の元老、山縣有朋の光と影を。
山縣も長州藩の足軽の子として生まれ、高杉晋作に見いだされ、奇兵隊の軍監に抜擢され出世への糸口を掴んだ。明治政府では「国軍の父」と仰がれ総理大臣(第3代、8代)、枢密院議長などを歴任した。さながらその一生は黄金燦然。
と、ここまでは、山縣公の出世街道ストーリー。次からは作家・小島直記の著書「人生はまだ七十の坂」(新潮社)を元に進む影の部分。「(山縣が)怪しい金で九つもの大別荘造るような生き方に、反発を覚える」と著者は憤慨している。そのくだりを書きます。
毀誉褒貶は人の常、そこを考慮してもその実体は異常と言わざるを得ない。軍監時代の慶応三年(三十才の頃)先ず長州吉田村に最初の別荘「無鄰菴」を作る。この資金は近郊の豪商・豪農に資金を出させた、ものだといわれる。
これで別荘に取り付かれ、以後十年ごとに別荘を造る決心をしたと。十年目に造ったのがあの有名な目白・椿山荘(今はホテル)、敷地一万八千坪。山縣が四十才、陸軍中将のとき。
十年後(五十才)、今度は大磯に「小淘庵」(敷地五千坪)を、それから四年後五十四才(陸軍大将)の時に京都鴨川に「無鄰菴」(旧支倉邸)を買い上げ、更に四年後(五十九才・日清戦争第一軍司令官)には京都南禅寺に「無鄰菴」を購入。(伊藤博文、山縣有朋、小村寿太郎らと日露戦争の決断をした名庭園)。
非業の死、志士たちが浮かばれぬ
続く六年後(六十五才)時に小石川水道橋に「新々亭」(さらさらてい)、その五年後(七十才・公爵)古稀の記念に小田原に敷地一万坪の「古稀庵」、続く六年後元首相清浦奎吾の小田原別荘「皆春荘」(二千坪)を買い取る。それでも飽き足らずその四年後、八十才(傘寿)のときに東京麹町に「新椿山荘」(敷地七百坪)に西洋館と日本館を造った。計九つの大別荘。これ自慢できますか?
山縣の陸軍中将時の給料が400円、果たして建設資金はどこからでたのかと誰もが疑問を持ちます。事実彼が陸軍大将のとき「山城屋和助事件」(明治5年、陸軍省から無担保で金を借り、金を返せず山城屋が陸軍省内で自殺)があり、山縣も汚職の嫌疑を受けた。この時彼を助けたのは西郷隆盛。この西郷を西南戦争で追い詰めたのは参謀山縣である。
「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」(論語・孔子)、つまり七十才になったら心のままに行動しても、人道を踏み外すことはなくなった」という解釈だが、山縣はそんなことは眼中になかったようだ。
幕末維新前夜の長州藩は、多くの替え難い志士たちが非業の死を遂げ屍(しかばね)累々。吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作らその屍の上で、山縣は八十四才まで生き、かくのごとき生涯を送った。
「一つ陸海軍人は質素を旨とすべし」(勅諭)。早逝した幕末の志士たちは、草葉の陰でさぞ嘆いていたことだろう。これが山縣有朋の実像である。
[今週の雑学講座]
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■[拘束]自己責任の教え
~人命と自己責任~
~軽薄な行動が迷惑を産む~
■[歴史]山縣有朋という大元帥の評価
~生涯に九つの別荘を造る~
~非業の死、志士たちが浮かばれぬ~
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[拘束]自己責任の教え
人命と自己責任
イスラム国が日本人二人を拘束したとして、我国に2億㌦(約236億円)の身代金を72時間の期限付きで要求した事件は、四方八方手を尽くしての救助作戦の甲斐もなく湯川遙菜さん(42)は、殺害された信憑性があると政府は申した。残念なことである。
もう一人のジャーナリスト後藤健二さん(47)は、ヨルダンに拘束されている死刑囚(サジダ・リシャウィ女史=2005年アンマンでの同時爆破事件の実行犯の一人)との交換を釈放条件にされて、緊迫した情況が続いている。全く卑劣極まりない行為で、許せない。
とはいっても、拘束された日本人二人に非が無かったわけではない。例えば湯川さんは、機関銃を手に得意気なポーズをネットに流すなど、あれは軽薄なピクニック気分に見えた。民間軍事会社の経営者だそうだが、イスラム国へ行く大義が果たして有ったのか、私は疑う。
軽薄な行動が迷惑を産む
こうした軽い気持ちが結果的に国や国民に多大な迷惑を掛けている。日本政府はこの地域を危険だとして、渡航を禁止している。禁を犯して行った。自己責任は少なくとも逃れられない。これが現実だろう。
ここは何があろうとも、情に流されることなくしっかり総括すべきだ。哀悼の言葉や同情論だけでは、これからも国が振り回されるだけだ。教訓を生かしてこそ犠牲者も浮かばれる。
後藤さんの場合「友人の湯川さんを助けるため行きます、何があっても自己責任です」との動画メッセージが流された。しかしその行動は尊くても、ジャーナリストとしてイスラム国で拘束されれば、どんな事態になるかは熟知していたはず。
自重してほしかった。欧米のマスコミ人が当地で何人も標的にされ、そして拘束され殺害された無惨な事件の数々は、いまだ生々しいのだから。
挙句アンマンの爆破事件の女と交換条件に利用され、ヨルダン政府にものっぴきならない迷惑が及んだ。それにしても、後藤さんには不可解な部分がある。やがて週刊誌等で、つまびらかにされるだろうと思うが、酷なようだけど私は敢て言いたい。美談だけでこの事件を語ってはいけないと思うのだ。
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降って湧いたような事件だが、何と事の始まりは昨年10月に遡るというから驚く。後藤健二さんの連絡が途絶えたのは、シリア入りした昨年10月末で、夫人は外務省に相談したという。その後夫人の元にイスラム国からメールが10通も届いて、結果「拘束している。身代金20億円払え。」(情報・朝日新聞)と脅迫されていたという。
ということは、政府・警察は水面下で必死で解決の糸口を探っていたことになる。総理の中東歴訪は、多分にこの事件も何かしら関係があったと今になって分かった。とは言え、勿論一日も早く後藤さんの解放を願うのは吝(やぶさか)でない。
50人のヨルダン市民の命を奪った同時爆破事件の実行犯と引き換えに、捕虜になっているヨルダン人パイロットと後藤さんの解放を公言するイスラム国。日本国とヨルダンとの板ばさみにあって最も苦慮しているのは、他ならぬヨルダン政府だろう。
どのような解決策に辿り着くのだろうか。その解決の鍵はいまやヨルダン側が握っている。大きな借りを日本国はヨルダン国に作ってしまった。今度の件で、国の名誉を損(そこな)わなければいいが、と私は危惧している。
[歴史]山縣有朋という大元帥の評価
生涯に九つの別荘を造る
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」が始まった。吉田松陰(役・伊勢谷友介)の妹・杉文(役・井上真央)をモデルにしたものだ。文は久坂玄瑞(役・東出昌大)と結婚、久坂は禁門の変で僅か24才の若さで切腹する、こうした激動の幕末維新を文は生き抜いていくのだが。
さて、ここではドラマを論じるわけではない。日本陸軍の創始者といわれる元陸軍大将山縣有朋(やまがた・ありとも1838年6月14日~1922年[大正11年]2月1日)のことを綴りたい。元老の中の元老、山縣有朋の光と影を。
山縣も長州藩の足軽の子として生まれ、高杉晋作に見いだされ、奇兵隊の軍監に抜擢され出世への糸口を掴んだ。明治政府では「国軍の父」と仰がれ総理大臣(第3代、8代)、枢密院議長などを歴任した。さながらその一生は黄金燦然。
と、ここまでは、山縣公の出世街道ストーリー。次からは作家・小島直記の著書「人生はまだ七十の坂」(新潮社)を元に進む影の部分。「(山縣が)怪しい金で九つもの大別荘造るような生き方に、反発を覚える」と著者は憤慨している。そのくだりを書きます。
毀誉褒貶は人の常、そこを考慮してもその実体は異常と言わざるを得ない。軍監時代の慶応三年(三十才の頃)先ず長州吉田村に最初の別荘「無鄰菴」を作る。この資金は近郊の豪商・豪農に資金を出させた、ものだといわれる。
これで別荘に取り付かれ、以後十年ごとに別荘を造る決心をしたと。十年目に造ったのがあの有名な目白・椿山荘(今はホテル)、敷地一万八千坪。山縣が四十才、陸軍中将のとき。
十年後(五十才)、今度は大磯に「小淘庵」(敷地五千坪)を、それから四年後五十四才(陸軍大将)の時に京都鴨川に「無鄰菴」(旧支倉邸)を買い上げ、更に四年後(五十九才・日清戦争第一軍司令官)には京都南禅寺に「無鄰菴」を購入。(伊藤博文、山縣有朋、小村寿太郎らと日露戦争の決断をした名庭園)。
非業の死、志士たちが浮かばれぬ
続く六年後(六十五才)時に小石川水道橋に「新々亭」(さらさらてい)、その五年後(七十才・公爵)古稀の記念に小田原に敷地一万坪の「古稀庵」、続く六年後元首相清浦奎吾の小田原別荘「皆春荘」(二千坪)を買い取る。それでも飽き足らずその四年後、八十才(傘寿)のときに東京麹町に「新椿山荘」(敷地七百坪)に西洋館と日本館を造った。計九つの大別荘。これ自慢できますか?
山縣の陸軍中将時の給料が400円、果たして建設資金はどこからでたのかと誰もが疑問を持ちます。事実彼が陸軍大将のとき「山城屋和助事件」(明治5年、陸軍省から無担保で金を借り、金を返せず山城屋が陸軍省内で自殺)があり、山縣も汚職の嫌疑を受けた。この時彼を助けたのは西郷隆盛。この西郷を西南戦争で追い詰めたのは参謀山縣である。
「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」(論語・孔子)、つまり七十才になったら心のままに行動しても、人道を踏み外すことはなくなった」という解釈だが、山縣はそんなことは眼中になかったようだ。
幕末維新前夜の長州藩は、多くの替え難い志士たちが非業の死を遂げ屍(しかばね)累々。吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作らその屍の上で、山縣は八十四才まで生き、かくのごとき生涯を送った。
「一つ陸海軍人は質素を旨とすべし」(勅諭)。早逝した幕末の志士たちは、草葉の陰でさぞ嘆いていたことだろう。これが山縣有朋の実像である。
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鼎(かない)の軽重を問う
鼎とは、天下の宝物を指す。天下に徳のあるときは重く、得が無ければ軽くなると伝えられていた。転じて人の実力を疑うこと。【問鼎軽重】
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