山口洋子先生の死を悼む/プロレス会場で石井館長を見た/他
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■山口洋子先生の死を悼む
~山口さんとの香港の想い出~
~試合場で山口さんに言われたこと~
~五木ひろしを世に出す~
■小津安二郎のテーマ音楽の狙い
■錦織圭の接近戦
■荻野浩介のラストスパート
~山中毅から荻野へ~
■プロレス会場で石井館長を見た
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山口洋子先生の死を悼む
「よこはま・たそがれ」「千曲川」「夜空」「ブランデーグラス」などの数多くのヒット曲の作詞家であり、直木賞作家であり、更にはクラブ「姫」のママであった山口洋子さんが、9月6日、心不全のため死去した。
享年77才。葬儀は近親者で行われたという。昭和史を煌めく星座の如く彩った才女がまた一人姿を消して、誠に昭和は遠くなりにけりである。
近年は脳梗塞や脳溢血などを繰り返し病院で治療にあたっていたという。同居しているキックボクシング創始者野口修さんから、私は死亡の通知を既に受けてはいたが、葬儀が終わるまで内密にとの約束で公表を控えてきた。後日お別れの会を予定しているようだ。
山口さんとの香港の想い出
私にとって、山口さんとの想い出は何といっても香港での出来事。野口社長と山口洋子さんは夫婦同然の仲であり、御二人が滞在している香港で、野口社長の取材要請を受け私が合流したのは、当地でタイ国のルンピニー首脳と会談をもつという1日前であった。
以前このブログでも紹介したが、この会談は野口社長の呼びかけで実現したわけだが、当時キックボクシングは沢村忠の凋落もありテコ入れが急がれていた。
そこで野口社長は、ぎくしゃくしたタイ国との関係を修復し、選手の供給をスムーズにするために、陸軍系ルンピニースタジアム首脳と腹蔵のない話し合いを持つことになった。
あれは昭和49年か50年頃だったと思うが、もう記憶は朧だ。当時私は、月刊「ゴング」に在籍していた。取材の要請を受けて、慌ただしく空港に着いたのが確か深夜で、閑散とした到着ロビーで一人不安な気持ちで立っていると、迎えに来てくれたのは、思いもよらず山口さんであった。セレブの運転の出迎えに、正直困惑したものだ。
山口さんの運転するベンツで向かったところは、何と最高級のペニンシュラホテル。そこに野口社長が待っていた。今夜の宿を心配していると野口社長は「ここに私共と一緒に泊りましょう」といってくれた。安サラリーの私が、お蔭で夢のような一夜を過ごした。
翌日、ルンピニー首脳との会談(於シェラトンホテル)の時間まで暫く時間があるというので、私も御二人のショッピングにお付き合いした。
宝石店にぶらりと入ったが、ここで驚いたことは、目を剥くような値段の宝石を、御二人がサイン一つで無造作に買っていることだった。まるでアラブの王族ならかくあるべしという買物風景であった。香港で御二人は有名人だったのだ。
首脳会談も無事終わり、中華店にも御招待を受けて、いままで口にしたことがないような珍味を味わったが、山口さんとその時どんな会話をしたかは覚えていない。
取材が終わり私はバンコクに向かった。僅か1日半の香港滞在であったが、セレブな御二人と行動を共にできたことは、私にとって生涯忘れられない思い出となった。
試合場で山口さんに言われたこと
山口さんとは、またこんな出来事もあった。あるとき、後楽園ホールで記者席に座る私の元に来て、作詞をすることを勧めてくれた。「作詞は物語を書くのと同じよ。舟木さん書いてみたら?」と言ってくれた。
私には元よりそんな才覚があるでなく、笑って首を横に振ったものだが、著名人から御世辞にもそんなことをいわれ、面はゆい思いをした。
五木の本名は、松山数夫といった。何度も芸名を替えては売れない無名の歌手を「五木ひろし」と芸名を変え、乾坤一擲の勝負に出たのは、野口修社長と山口洋子のコンビ。
あの頃の野口社長は、キックに沢村忠がいて、競走馬に500㌔の巨体のスーパーフィルドがいて、兎も角勢いがあった。その上昇気流に五木も乗った。五木の運はここに始まる。
五木ひろしを世に出す
五木ひろしの芸名は、旧知の作家・五木寛之さんから頂いたと野口さんは私に語った。「銀座を歩いているときに正面から五木先生が来てねえ、咄嗟に、今度うち(野口プロ)からデビューする歌手に、先生の名前を使わせてもらいたいのですが、とお願いしたら、先生は快諾してくれた。」
へえ~、これが五木ひろしの芸名由来の真相とは、と私は感心した覚えがある。その他「ツ・キ・オ・ヒ・ロ・ウ」なんて、語呂合わせもあるらしいけど、オジサンは訊いていない。
ともかくも二人の強力なプロデュース力、人脈が有ったればこそ、五木は世に出たのである。デビュー曲は「よこはま・たそがれ」。この1曲で五木はスターダムにのし上がり、まるでロケットのように飛翔した。
後に3人の間に亀裂が生じ、五木は野口プロを離れることになるが、野口&山口コンビが居なかったなら、五木ひろしという歌手は存在しなかったであろうことは、容易に想像できる。
風俗、芸能、文学の分野で不滅の足跡を残した山口洋子先生、謹んで御冥福をお祈り致します。歌謡曲は永遠です!
「よこはま・たそがれ」作詞/山口洋子 作曲/平尾昌晃
よこはま たそがれ ホテルの小部屋
口づけ 残り香 煙草のけむり
ブルース 口笛 女の涙
あの人は 行って行ってしまった
小津安二郎のテーマ音楽の狙い
小津安二郎監督の映画が好きで、読書に倦(う)むとレンタル店で何かしら借りてくる。その小津監督、どんな哀しい場面でも「青空のような音楽を作って欲しい」と作曲者斎藤高順に依頼したそうだ。
普通、悲しいシーンには悲しい音楽を、楽しい時にはそれに相応しい音楽を流すものだが、小津監督は一貫していた。どんな場面でも、先の青空のような曲を所望したというのは初耳だった。
「秋日和」(松竹、1960年作品)では主題曲が軽快な「ポルカ」。格調高く美しい、私が好むテーマ曲だが、小津監督の狙いが分かるような気がする。
「秋刀魚の味」もわが愛する作品で、岩下志麻が嫁ぐ日の場面は、特に泣かせる。バックに流れる音楽が父親の孤独感をしみじみと引き立て、胸に迫る。
小津映画は別れのシーンがどの作品も出てくる。そしてテーマ曲がキラリ光るのだ。相反するものでも、それが相乗効果となる場合がある、そんな事を小津監督は我々に教えてくれる。新聞記事を読んでふと考えた…。
錦織圭の接近戦
全米オープンテニスを中継したのはWOWOWだが、最初はNHKが放送していたんです。次がTBSでした。今度のフィバーでさぞ、ほぞを噛む思いだろうね。兎も角、あれがNHKや民放だったらもっと日本中が沸騰したと思うがね。
4大国際大会(グランドスラム)は全豪・全仏・ウインブルドン・全米だけど、観客動員数、賞金総額でも群を抜くのは全米らしい。
賞金総額34,252,000㌦(約35億)、優勝賞金300万㌦(約3億600万)準優勝145万㌦(1億5400万)。スケールが違うよね。錦織の場合スポンサー契約を結ぶユニクロから特別臨時ボーナス1億円が出るし、羨ましい限りだ。
松岡修造さん(元プロテニス選手、現テニス指導者)がNHKのテレビで興味ある解説をしていた。「(錦織)はコートラインぎりぎりに守っていたが、あれは攻撃重視の構えであったと。
ボクシングでいえば、接近戦の勝負に挑んだということだろう。肉を切らせて骨を断つ戦法、ヘラクレスのごときスラッガーと身体で劣る者が対等に戦うのだから何か違う戦い方が必要というわけだ。
チャン・コーチの進言もあるのだろうけど、勇気が要るよね。”小が大を制す”には、誰も遣らない事をやる。「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」だ。今回の全米オープンほど痛快なスポーツイベントはなかった。日本人プレヤーズもここまできたか!
荻野浩介のラストスパート
痛快といえば、韓国・仁川で行われているアジア大会水泳競技200㍍自由形決勝の荻野公介。150㍍のターン、北京五輪金の地元韓国の朴、中国孫に1秒遅れ、これはダメだと諦念したら、強引に逆転して優勝した。
あの追い込みの凄さときたらかつて見たことがない。まるでトビウオのスピードだ。爆発的な追い込みは欧米人の専売特許だと思っていたので、全く恐れ入った。日本人スイマーも逞しくなったものだ。
自由形こそ水泳競技の華、あのような強靭な発条(バネ)、スタミナはいつの頃から日本人が持てるようになったんだろ。頼もしく、そして嬉しい、限りない未来を感じる。
昔、自由形に山中毅という早稲田のスイマーがいた。メルボルン、ローマ五輪で、私は山中に期待した。彼ほどの選手はもう日本には出ないぞと崇めていた。
山中毅から荻野へ
彼の前に立ちはだかったのは豪のマレー・ローズ。山中は
終ぞローズに勝つことはできなかった。私はラジオにかじりついて必死で応援した。負けたときの悲しみときたら一口では表現できない。
1956年メルボルンは、400㍍、1500㍍で銀、続く1960年ローマは400㍍でも銀メダル、結局ローズを1度も破る事は出来なかった。古橋広之進以後、山中毅はずば抜けた存在で、もう山中みたいなスイマーは出てこない、と信じていたら、荻野公介という怪物が出現した。
山中さんは、身長171㌢、荻野公介175㌢、ほぼ同じ背格好である。巨人ではない。荻野は、バルセロナ、ロンドンと経験も豊富の若干20才、2年後のブラジル五輪には脂の載った22才だ。和製ソープか、楽しみだねえ。
プロレス会場で石井館長を見た
9月18日(後楽園ホール)はリアルジャパンプロレスから御招待を受けて、一夜プロレス観戦を楽しむ。会場を見渡したら何とも懐かしい姿が目に入った。
元K-1主催者、石井和義館長であった。南側リングサイドに大魔神・佐々木と肩を並べて座っていた。一回り痩せたように思えたが、相変わらずゴルフをしているのか、顔は見事な小麦色であった。
やはりいまでも人気があって、休憩時間には相次ぎ記念写真をせがまれていた。格闘技界を席捲したK-1が民放のテレビから消えてもう何年になるのだるろう。K-1華やかなりし日をふと思う。
ともあれプロレスの話に戻ろう。初代タイガーマスクは、リング上で新たなパートナーとして貴闘力を紹介した。暮に大一番を遣るのだというが、対戦相手は明かさない。
勿論あの方に決まっている。大仁田厚、邪道軍団だ。巧いねタイガーは、演出が。またも仁義なき抗争の火が噴く、これぞプロレスエンタメの極致…お見逃しなきように!
リアルジャパンプロレスのメインイベントの試合風景

初台商店街の阿波踊り

DVD『カンムリワシ具志堅用高』 第1部&第2部
DVD『日本ボクシング不滅の激闘史』いずれも絶賛発売中!!
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■山口洋子先生の死を悼む
~山口さんとの香港の想い出~
~試合場で山口さんに言われたこと~
~五木ひろしを世に出す~
■小津安二郎のテーマ音楽の狙い
■錦織圭の接近戦
■荻野浩介のラストスパート
~山中毅から荻野へ~
■プロレス会場で石井館長を見た
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山口洋子先生の死を悼む
「よこはま・たそがれ」「千曲川」「夜空」「ブランデーグラス」などの数多くのヒット曲の作詞家であり、直木賞作家であり、更にはクラブ「姫」のママであった山口洋子さんが、9月6日、心不全のため死去した。
享年77才。葬儀は近親者で行われたという。昭和史を煌めく星座の如く彩った才女がまた一人姿を消して、誠に昭和は遠くなりにけりである。
近年は脳梗塞や脳溢血などを繰り返し病院で治療にあたっていたという。同居しているキックボクシング創始者野口修さんから、私は死亡の通知を既に受けてはいたが、葬儀が終わるまで内密にとの約束で公表を控えてきた。後日お別れの会を予定しているようだ。
山口さんとの香港の想い出
私にとって、山口さんとの想い出は何といっても香港での出来事。野口社長と山口洋子さんは夫婦同然の仲であり、御二人が滞在している香港で、野口社長の取材要請を受け私が合流したのは、当地でタイ国のルンピニー首脳と会談をもつという1日前であった。
以前このブログでも紹介したが、この会談は野口社長の呼びかけで実現したわけだが、当時キックボクシングは沢村忠の凋落もありテコ入れが急がれていた。
そこで野口社長は、ぎくしゃくしたタイ国との関係を修復し、選手の供給をスムーズにするために、陸軍系ルンピニースタジアム首脳と腹蔵のない話し合いを持つことになった。
あれは昭和49年か50年頃だったと思うが、もう記憶は朧だ。当時私は、月刊「ゴング」に在籍していた。取材の要請を受けて、慌ただしく空港に着いたのが確か深夜で、閑散とした到着ロビーで一人不安な気持ちで立っていると、迎えに来てくれたのは、思いもよらず山口さんであった。セレブの運転の出迎えに、正直困惑したものだ。
山口さんの運転するベンツで向かったところは、何と最高級のペニンシュラホテル。そこに野口社長が待っていた。今夜の宿を心配していると野口社長は「ここに私共と一緒に泊りましょう」といってくれた。安サラリーの私が、お蔭で夢のような一夜を過ごした。
翌日、ルンピニー首脳との会談(於シェラトンホテル)の時間まで暫く時間があるというので、私も御二人のショッピングにお付き合いした。
宝石店にぶらりと入ったが、ここで驚いたことは、目を剥くような値段の宝石を、御二人がサイン一つで無造作に買っていることだった。まるでアラブの王族ならかくあるべしという買物風景であった。香港で御二人は有名人だったのだ。
首脳会談も無事終わり、中華店にも御招待を受けて、いままで口にしたことがないような珍味を味わったが、山口さんとその時どんな会話をしたかは覚えていない。
取材が終わり私はバンコクに向かった。僅か1日半の香港滞在であったが、セレブな御二人と行動を共にできたことは、私にとって生涯忘れられない思い出となった。
試合場で山口さんに言われたこと
山口さんとは、またこんな出来事もあった。あるとき、後楽園ホールで記者席に座る私の元に来て、作詞をすることを勧めてくれた。「作詞は物語を書くのと同じよ。舟木さん書いてみたら?」と言ってくれた。
私には元よりそんな才覚があるでなく、笑って首を横に振ったものだが、著名人から御世辞にもそんなことをいわれ、面はゆい思いをした。
五木の本名は、松山数夫といった。何度も芸名を替えては売れない無名の歌手を「五木ひろし」と芸名を変え、乾坤一擲の勝負に出たのは、野口修社長と山口洋子のコンビ。
あの頃の野口社長は、キックに沢村忠がいて、競走馬に500㌔の巨体のスーパーフィルドがいて、兎も角勢いがあった。その上昇気流に五木も乗った。五木の運はここに始まる。
五木ひろしを世に出す
五木ひろしの芸名は、旧知の作家・五木寛之さんから頂いたと野口さんは私に語った。「銀座を歩いているときに正面から五木先生が来てねえ、咄嗟に、今度うち(野口プロ)からデビューする歌手に、先生の名前を使わせてもらいたいのですが、とお願いしたら、先生は快諾してくれた。」
へえ~、これが五木ひろしの芸名由来の真相とは、と私は感心した覚えがある。その他「ツ・キ・オ・ヒ・ロ・ウ」なんて、語呂合わせもあるらしいけど、オジサンは訊いていない。
ともかくも二人の強力なプロデュース力、人脈が有ったればこそ、五木は世に出たのである。デビュー曲は「よこはま・たそがれ」。この1曲で五木はスターダムにのし上がり、まるでロケットのように飛翔した。
後に3人の間に亀裂が生じ、五木は野口プロを離れることになるが、野口&山口コンビが居なかったなら、五木ひろしという歌手は存在しなかったであろうことは、容易に想像できる。
風俗、芸能、文学の分野で不滅の足跡を残した山口洋子先生、謹んで御冥福をお祈り致します。歌謡曲は永遠です!
「よこはま・たそがれ」作詞/山口洋子 作曲/平尾昌晃
よこはま たそがれ ホテルの小部屋
口づけ 残り香 煙草のけむり
ブルース 口笛 女の涙
あの人は 行って行ってしまった
小津安二郎のテーマ音楽の狙い
小津安二郎監督の映画が好きで、読書に倦(う)むとレンタル店で何かしら借りてくる。その小津監督、どんな哀しい場面でも「青空のような音楽を作って欲しい」と作曲者斎藤高順に依頼したそうだ。
普通、悲しいシーンには悲しい音楽を、楽しい時にはそれに相応しい音楽を流すものだが、小津監督は一貫していた。どんな場面でも、先の青空のような曲を所望したというのは初耳だった。
「秋日和」(松竹、1960年作品)では主題曲が軽快な「ポルカ」。格調高く美しい、私が好むテーマ曲だが、小津監督の狙いが分かるような気がする。
「秋刀魚の味」もわが愛する作品で、岩下志麻が嫁ぐ日の場面は、特に泣かせる。バックに流れる音楽が父親の孤独感をしみじみと引き立て、胸に迫る。
小津映画は別れのシーンがどの作品も出てくる。そしてテーマ曲がキラリ光るのだ。相反するものでも、それが相乗効果となる場合がある、そんな事を小津監督は我々に教えてくれる。新聞記事を読んでふと考えた…。
錦織圭の接近戦
全米オープンテニスを中継したのはWOWOWだが、最初はNHKが放送していたんです。次がTBSでした。今度のフィバーでさぞ、ほぞを噛む思いだろうね。兎も角、あれがNHKや民放だったらもっと日本中が沸騰したと思うがね。
4大国際大会(グランドスラム)は全豪・全仏・ウインブルドン・全米だけど、観客動員数、賞金総額でも群を抜くのは全米らしい。
賞金総額34,252,000㌦(約35億)、優勝賞金300万㌦(約3億600万)準優勝145万㌦(1億5400万)。スケールが違うよね。錦織の場合スポンサー契約を結ぶユニクロから特別臨時ボーナス1億円が出るし、羨ましい限りだ。
松岡修造さん(元プロテニス選手、現テニス指導者)がNHKのテレビで興味ある解説をしていた。「(錦織)はコートラインぎりぎりに守っていたが、あれは攻撃重視の構えであったと。
ボクシングでいえば、接近戦の勝負に挑んだということだろう。肉を切らせて骨を断つ戦法、ヘラクレスのごときスラッガーと身体で劣る者が対等に戦うのだから何か違う戦い方が必要というわけだ。
チャン・コーチの進言もあるのだろうけど、勇気が要るよね。”小が大を制す”には、誰も遣らない事をやる。「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」だ。今回の全米オープンほど痛快なスポーツイベントはなかった。日本人プレヤーズもここまできたか!
荻野浩介のラストスパート
痛快といえば、韓国・仁川で行われているアジア大会水泳競技200㍍自由形決勝の荻野公介。150㍍のターン、北京五輪金の地元韓国の朴、中国孫に1秒遅れ、これはダメだと諦念したら、強引に逆転して優勝した。
あの追い込みの凄さときたらかつて見たことがない。まるでトビウオのスピードだ。爆発的な追い込みは欧米人の専売特許だと思っていたので、全く恐れ入った。日本人スイマーも逞しくなったものだ。
自由形こそ水泳競技の華、あのような強靭な発条(バネ)、スタミナはいつの頃から日本人が持てるようになったんだろ。頼もしく、そして嬉しい、限りない未来を感じる。
昔、自由形に山中毅という早稲田のスイマーがいた。メルボルン、ローマ五輪で、私は山中に期待した。彼ほどの選手はもう日本には出ないぞと崇めていた。
山中毅から荻野へ
彼の前に立ちはだかったのは豪のマレー・ローズ。山中は
終ぞローズに勝つことはできなかった。私はラジオにかじりついて必死で応援した。負けたときの悲しみときたら一口では表現できない。
1956年メルボルンは、400㍍、1500㍍で銀、続く1960年ローマは400㍍でも銀メダル、結局ローズを1度も破る事は出来なかった。古橋広之進以後、山中毅はずば抜けた存在で、もう山中みたいなスイマーは出てこない、と信じていたら、荻野公介という怪物が出現した。
山中さんは、身長171㌢、荻野公介175㌢、ほぼ同じ背格好である。巨人ではない。荻野は、バルセロナ、ロンドンと経験も豊富の若干20才、2年後のブラジル五輪には脂の載った22才だ。和製ソープか、楽しみだねえ。
プロレス会場で石井館長を見た
9月18日(後楽園ホール)はリアルジャパンプロレスから御招待を受けて、一夜プロレス観戦を楽しむ。会場を見渡したら何とも懐かしい姿が目に入った。
元K-1主催者、石井和義館長であった。南側リングサイドに大魔神・佐々木と肩を並べて座っていた。一回り痩せたように思えたが、相変わらずゴルフをしているのか、顔は見事な小麦色であった。
やはりいまでも人気があって、休憩時間には相次ぎ記念写真をせがまれていた。格闘技界を席捲したK-1が民放のテレビから消えてもう何年になるのだるろう。K-1華やかなりし日をふと思う。
ともあれプロレスの話に戻ろう。初代タイガーマスクは、リング上で新たなパートナーとして貴闘力を紹介した。暮に大一番を遣るのだというが、対戦相手は明かさない。
勿論あの方に決まっている。大仁田厚、邪道軍団だ。巧いねタイガーは、演出が。またも仁義なき抗争の火が噴く、これぞプロレスエンタメの極致…お見逃しなきように!
リアルジャパンプロレスのメインイベントの試合風景

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