歌謡曲、プロにはワザがある/12月、師走です/他
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■歌謡曲、プロにはワザがある
~病床にある山口洋子先生~
~五木ひろしのデビューの頃~
■12月、師走です
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歌謡曲、プロにはワザがある
以前紹介したシャンソン「枯葉」もそうだが歌詞というより秀逸な詩であり文学である。短い歌詞の中に森羅万象が凝縮されている。この「公園の手品師」(末尾に作詞あり)も晩秋の公園の情景を余すところなく捉えている。作詞家とは凄いもんだとつくづく思うのです。
因みに作曲は歌謡界の大御所である吉田正、あの寒い朝や異国の丘の作曲者。流石に詞を際立たせる術を知っている。シャンソン風に粋なメロディに作り上げた。これをフランク永井が甘い、トロけるような節回しで唄った。私の愛唱歌の一曲だ。
銀杏は手品師 老いたピエロなんて、表現はなかなか思いつかない。銀杏の葉をトランプに見立てる、う~ん、これがプロのワザなのだ。「秋がいくんだ冬がくる」スパッと断定して、厳しい冬の到来をより印象付けている。見事なまでの心象風景の描写。
作詞といえば、多分昭和50年頃だったと記憶にあるが、野口修社長(野口プロ=キックボクシングの産みの親、沢村忠をスーパースターにした)と山口洋子先生「姫」のママにして作詞家)と共に香港に滞在しことがある。
野口社長がタイからルンピニースタジアムの要人(陸軍関係)を香港に招待して、当地で険悪なタイとの関係を修復するべく企画した野口-ルンピニー会談だった。私(当時ゴング編集部)にそれを取材して欲しいと、招待に預かった。キックボクシングに影を落とした頃で、野口社長もなんとか活路を見え出そうと必死だったのだ。
~病床にある山口洋子先生~
私は1日遅れで深夜香港に到着したら、山口先生がベンツを運転して空港に迎えに来てくれた。何んという僥倖! そして到着した所は、あの超高級ペネンシュラホテル、凄いホテルに宿泊したのだ。1泊2日の香港だったが、無事取材が終わり私は慌ただしくバンコクへ回った。想い出深い旅であった。
以前山口先生に、流行歌の話でこんなこといわれたと綴ったことが有る。「舟木さん、作詞してみない?文章書くのと同じですよ。歌は物語なの、短い詞(ことば)のなかに物語を詰めていけばいいのよ」 こんな話だったと思う。私は即座に、とてもとてもと笑った。公園の手品師の作詞を見るまでもない。作詞家や小説家の才能は、天の配剤、特別な才能ある者しか出来ない仕事だと私は思っている。
「よこはま・たそがれ」は山口先生が作詞して、五木ひろしが唄い空前のヒットとなり、五木はこの一曲で一躍スターダムにのし上がった。山口先生は、その後も「夜空」「千曲川」「うそ」「ふるさと」などのメガヒットの作詞を連発した。そんなビックな先生から、御世辞にも歌詞を書いたらといわれた。身に余る光栄であった。
その山口先生がいまは病床にある。一緒に暮らす野口社長から伺った。重い病だという。東映のニューフェイスから銀座にバー「姫」を開き日本一のバーにしたかと思えば、今度は作詞家、更には「老梅」で直木賞(S60年)を受賞した。栄光を独り占めしたような方が、病院のベットで苦しんでいる。その落差に往時を偲ぶ。恢復あれかしと切に祈らずにはいられない。
~五木ひろしのデビューの頃~
因みに五木は野口プロに移籍して五木ひろしと改名してから芽が出たんだ。この名前、作家で野口社長の旧知の五木寛之さんからもらって付けたと私に同氏が仰った。その前は三谷謙の名で、全然売れずにいたのを山口先生がプロデューサーを引き受けて、作曲家にも平尾昌晃や猪俣公章なんか起用して、万全の態勢をとってね、それで五木は、ポーンと浮上できた。それまでは松山まさる、一条英一、そして三谷謙と何度も歌手名を替えて苦労した。
歌は上手いのに曲とスタッフに恵まれなかったんだね。でもね、彼のスターダムへの階段には、多くのキックボクサーの努力、支えもあったんだよ。目黒ジムが地方巡業に出るときには、野口里野会長(目黒ジム=修社長の実母)は、必ず選手にお金を持たせた。レコード賃だね。それで選手たちは試合前にレコード店巡りをした。「五木のレコード下さい」ってね。その度にゴッソリとレコードを買い上げた訳です。
「よこはま・たそがれ」は忽ちオリコン1位に躍り出たが、これも一助だった。野口プロ、キックの目黒ジムが一丸となって応援したんだよ。こんな苦労があったことって、五木本人は知っているのかな。これ忘れないで欲しいね、五木ひろしの原点だもの。
そういえば五木が、野口プロに入りたての頃はよく後楽園ホールのキック会場の入り口で、「いらっしゃいませ」とチケット切る手伝いをしていたよ。分からないものだね、人の人生は…。以上、オジサンの、つまらない歌謡曲講座でした。
*****公園の手品師*****
歌:フランク永井
作詞:宮川哲夫
作曲:吉田 正
鳩がとびたつ公園の
銀杏は手品師 老いたピエロ
薄れ日に微笑みながら季節の歌を
ラララン ラララン
ラララン 唄っているよ貸して
あげよかアコーディオン
銀杏は手品師 老いたピエロ
雲が流れる公園の
銀杏は手品師 老いたピエロ
口上はいわないけれどなれたてつきで
ラララン ラララン
ラララン カードを撒くよ
秋がいくんだ冬が来くる
銀杏は手品師 老いたピエロ
(三番略)
12月、師走です
12月、とうとう師走です。1日の朝はラジオ体操を止めて散歩しました。6時半夜が白々と開けて、今日も良い天気です。イアーホンからはドミンゴの「夢のように」「カタリ」の音楽が鳴り響きそれだけで幸せな気分になります。格別に冷え込む朝でしたが、全身に漲る力を感じました。
お昼には、またも代々木公園に弁当持参でいきました。勿論、家内
も一緒でワインとビールは当たり前の如く携帯クラーに詰めて行きました。紅葉狩りには遅すぎるのですが、余りににもお天気が良いのでもったいないと思ったのです。ところどころに燃え尽きようとする”もみじ”が火のように太陽に映えていました。
いそがしく時計の動く師走哉
子規
長閑な師走の昼下がりでした。しかし我が愛するタイのバンコクではまたも反政府デモ、警官隊との衝突で死傷者が出たとかのニュース。今度は政府支持派が対抗して、大がかりなデモ。国を二つに割っての無意味な争いは、先行き混沌としてきました。観光立国のタイ、これでまた観光客の足は遠のくだろう。なによりも政治が停滞する。
同じ事の繰り返しだ。国益を損なうものだ。さぞ、聳えたつ舎利仏閣、悠久の流、チャオプラヤも涙を流していることだろう。微笑みの国の民に知恵はないのか、力による政府打倒では何も解決しない。まもなく1年が終わろうとするのに、私は心配でたまらない。
大山公園の早朝風景、銀杏の葉も落ちて淋しい…。

逆光に映える代々木公園の紅葉、ゆく秋の風情。

1日の陽気は小春日和、代々木公園で昼食を摂る。

ブログ「舟木昭太郎の日々つれづれ」は毎週火曜日更新です。
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■歌謡曲、プロにはワザがある
~病床にある山口洋子先生~
~五木ひろしのデビューの頃~
■12月、師走です
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歌謡曲、プロにはワザがある
以前紹介したシャンソン「枯葉」もそうだが歌詞というより秀逸な詩であり文学である。短い歌詞の中に森羅万象が凝縮されている。この「公園の手品師」(末尾に作詞あり)も晩秋の公園の情景を余すところなく捉えている。作詞家とは凄いもんだとつくづく思うのです。
因みに作曲は歌謡界の大御所である吉田正、あの寒い朝や異国の丘の作曲者。流石に詞を際立たせる術を知っている。シャンソン風に粋なメロディに作り上げた。これをフランク永井が甘い、トロけるような節回しで唄った。私の愛唱歌の一曲だ。
銀杏は手品師 老いたピエロなんて、表現はなかなか思いつかない。銀杏の葉をトランプに見立てる、う~ん、これがプロのワザなのだ。「秋がいくんだ冬がくる」スパッと断定して、厳しい冬の到来をより印象付けている。見事なまでの心象風景の描写。
作詞といえば、多分昭和50年頃だったと記憶にあるが、野口修社長(野口プロ=キックボクシングの産みの親、沢村忠をスーパースターにした)と山口洋子先生「姫」のママにして作詞家)と共に香港に滞在しことがある。
野口社長がタイからルンピニースタジアムの要人(陸軍関係)を香港に招待して、当地で険悪なタイとの関係を修復するべく企画した野口-ルンピニー会談だった。私(当時ゴング編集部)にそれを取材して欲しいと、招待に預かった。キックボクシングに影を落とした頃で、野口社長もなんとか活路を見え出そうと必死だったのだ。
~病床にある山口洋子先生~
私は1日遅れで深夜香港に到着したら、山口先生がベンツを運転して空港に迎えに来てくれた。何んという僥倖! そして到着した所は、あの超高級ペネンシュラホテル、凄いホテルに宿泊したのだ。1泊2日の香港だったが、無事取材が終わり私は慌ただしくバンコクへ回った。想い出深い旅であった。
以前山口先生に、流行歌の話でこんなこといわれたと綴ったことが有る。「舟木さん、作詞してみない?文章書くのと同じですよ。歌は物語なの、短い詞(ことば)のなかに物語を詰めていけばいいのよ」 こんな話だったと思う。私は即座に、とてもとてもと笑った。公園の手品師の作詞を見るまでもない。作詞家や小説家の才能は、天の配剤、特別な才能ある者しか出来ない仕事だと私は思っている。
「よこはま・たそがれ」は山口先生が作詞して、五木ひろしが唄い空前のヒットとなり、五木はこの一曲で一躍スターダムにのし上がった。山口先生は、その後も「夜空」「千曲川」「うそ」「ふるさと」などのメガヒットの作詞を連発した。そんなビックな先生から、御世辞にも歌詞を書いたらといわれた。身に余る光栄であった。
その山口先生がいまは病床にある。一緒に暮らす野口社長から伺った。重い病だという。東映のニューフェイスから銀座にバー「姫」を開き日本一のバーにしたかと思えば、今度は作詞家、更には「老梅」で直木賞(S60年)を受賞した。栄光を独り占めしたような方が、病院のベットで苦しんでいる。その落差に往時を偲ぶ。恢復あれかしと切に祈らずにはいられない。
~五木ひろしのデビューの頃~
因みに五木は野口プロに移籍して五木ひろしと改名してから芽が出たんだ。この名前、作家で野口社長の旧知の五木寛之さんからもらって付けたと私に同氏が仰った。その前は三谷謙の名で、全然売れずにいたのを山口先生がプロデューサーを引き受けて、作曲家にも平尾昌晃や猪俣公章なんか起用して、万全の態勢をとってね、それで五木は、ポーンと浮上できた。それまでは松山まさる、一条英一、そして三谷謙と何度も歌手名を替えて苦労した。
歌は上手いのに曲とスタッフに恵まれなかったんだね。でもね、彼のスターダムへの階段には、多くのキックボクサーの努力、支えもあったんだよ。目黒ジムが地方巡業に出るときには、野口里野会長(目黒ジム=修社長の実母)は、必ず選手にお金を持たせた。レコード賃だね。それで選手たちは試合前にレコード店巡りをした。「五木のレコード下さい」ってね。その度にゴッソリとレコードを買い上げた訳です。
「よこはま・たそがれ」は忽ちオリコン1位に躍り出たが、これも一助だった。野口プロ、キックの目黒ジムが一丸となって応援したんだよ。こんな苦労があったことって、五木本人は知っているのかな。これ忘れないで欲しいね、五木ひろしの原点だもの。
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歌:フランク永井
作詞:宮川哲夫
作曲:吉田 正
鳩がとびたつ公園の
銀杏は手品師 老いたピエロ
薄れ日に微笑みながら季節の歌を
ラララン ラララン
ラララン 唄っているよ貸して
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銀杏は手品師 老いたピエロ
雲が流れる公園の
銀杏は手品師 老いたピエロ
口上はいわないけれどなれたてつきで
ラララン ラララン
ラララン カードを撒くよ
秋がいくんだ冬が来くる
銀杏は手品師 老いたピエロ
(三番略)
12月、師走です
12月、とうとう師走です。1日の朝はラジオ体操を止めて散歩しました。6時半夜が白々と開けて、今日も良い天気です。イアーホンからはドミンゴの「夢のように」「カタリ」の音楽が鳴り響きそれだけで幸せな気分になります。格別に冷え込む朝でしたが、全身に漲る力を感じました。
お昼には、またも代々木公園に弁当持参でいきました。勿論、家内
も一緒でワインとビールは当たり前の如く携帯クラーに詰めて行きました。紅葉狩りには遅すぎるのですが、余りににもお天気が良いのでもったいないと思ったのです。ところどころに燃え尽きようとする”もみじ”が火のように太陽に映えていました。
いそがしく時計の動く師走哉
子規
長閑な師走の昼下がりでした。しかし我が愛するタイのバンコクではまたも反政府デモ、警官隊との衝突で死傷者が出たとかのニュース。今度は政府支持派が対抗して、大がかりなデモ。国を二つに割っての無意味な争いは、先行き混沌としてきました。観光立国のタイ、これでまた観光客の足は遠のくだろう。なによりも政治が停滞する。
同じ事の繰り返しだ。国益を損なうものだ。さぞ、聳えたつ舎利仏閣、悠久の流、チャオプラヤも涙を流していることだろう。微笑みの国の民に知恵はないのか、力による政府打倒では何も解決しない。まもなく1年が終わろうとするのに、私は心配でたまらない。
大山公園の早朝風景、銀杏の葉も落ちて淋しい…。

逆光に映える代々木公園の紅葉、ゆく秋の風情。

1日の陽気は小春日和、代々木公園で昼食を摂る。

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