初代タイガマスクと楽しむヒト科最速男ボルト | 舟木昭太郎の日々つれづれ

初代タイガマスクと楽しむヒト科最速男ボルト

・ヒト科最速男ボルト
 ~100㍍は何処まで記録を短縮する?
 ~先天性の病気を克服
 ~これからは巨人達の戦い
 
・初代タイガーマスクと楽しむ
 ~二人のレジェンド選手と合体
 ~屈辱をバネに飛躍した佐山
 
・腰痛に泣いた夏の日

 

 
 
ヒト科最速男ボルト
 
 ウサイン・ボルト(ジャマイカ)は伝説のランナーになると宣言していたけど、その通りなりました。ロンドン五輪100、200㍍走で共に優勝して北京に続いて史上初の二種目2連覇を成し遂げて、名実ともにレジェンドランナーとなりました。
 
 100は9秒63のタイムで自らの持つオリンピック記録を塗り替えました。ダントツの強さでした。まるで天馬の如き速さでした。ボルトの走る姿は、写真にならない、という実しやかな話があります。これはシャッターチャンスを逃してしまう程速い、という事なのでしょうか。

 100㍍走の世界記録変遷史を調べると、1964年10月、ボブ・ヘイズ(米)が東京五輪(ここから電動計時)でマークした10秒06が24年後の1988年にはカール・ルイス(米)が、ソウル五輪で9秒9を記録。更に’91年東京での世界陸上で9秒86に短縮させて、所謂カール・ルイス時代を築きました。因みに最初に10秒を切った男は、カルヴィン・スミス(米=9秒93、コロラド)でした。
 
 このらのの記録も次々に塗り替えられていきました。モーリス・グリーン(米=’99年6月アテネ))が遂に9秒79台に突入しました。’00年シドニー五輪でのグリーンの優勝タイムは9秒87、’04年アテネ五輪金メダリストは、ジャステイン・ガリトン(米)で記録は9秒85、五輪は毎回記録が更新され続けています。


~100㍍は何処まで記録を短縮する?~
 
 短距離界はかくの如く米国の独壇場だったのですが、彗星の様にジャマイカに新星が現れました。それがウサイン・ボルトです。’08年8月、北京五輪では9秒69の世界新で金メダル、驚異の記録で世界に躍り出ました。

 翌年8月、ベルリン世界選手権では人類初の9秒56台をマークしたのです。そしてロンドンでの破天荒な活躍、走りと共にあのパフォーマンスも目に焼き付いています。
 
 人類は70年かけて、0.85秒(距離にして約8㍍)短縮した。早稲田大学鈴木秀次教授によれば、ボルトの9秒56は専門家の予想シミレーションより40年早く到達してしまったという。ではこれか先記録は何処まで伸びるのか。鈴木教授の計算によれば、9秒2か3までは行くだろうと予測する。
 
 ボルトの走りの特徴はスタートから50㍍で、トップスピード(最高速度=44㌔)に達し、90㍍過ぎまで殆どスピードが落ちないそうな。ボルトの走幅は2m75cm、ゴールラインを割る最後の1歩はなんと2m97cmだと!41歩で100㍍を駆け抜けてしまうらしいよ、41歩ですよ。因みに左足の方が20㌢歩幅が長いらしい。これは、背骨が曲がっていることに関係するらしい。
 
 ボルトの身長は196㌢ある。これまでは180㌢以上の選手は短距離には向かないとされた。空気の抵抗をより受ける、という事かも知れない。彼はこの常識を覆したばかりか、彼には脊椎側弯症といって脊椎が側方に湾曲する致命的な病気を先天的に持っていて、本来なら過激な走りはできない。
 

~先天性の病気を克服~
 
 この病は手術しなければ治らないそうで、手術すれば競技人生もお終わってしまう。そこでガラスのような脊椎を保護するために、徹底した筋力トレに励んだ。NHKテレビの特集で見たが、格闘家がするようにバーベルを挙げたりする、苛烈なトレで鋼のように強靭な筋力を造り上げた。背中を写した写真には、筋肉にガードされた曲がった脊椎が鮮明に浮き上がっている。
 
 あのぎくしゃくした走りも、逆にその揺れが相乗効果になってパワーを生み出しているとは先の鈴木先生の見解である。身体の欠陥を天命として受け入れ、それを長所に変える、ボルトと彼のコーチ、医師達の飽くなき努力追求には、敬服するのみ。
 
「おれがジャマイカの五輪予選で負けたとき、世間は俺を見放した。だけども俺は俺を見放さなかった」これは100と200で金メダルを取った直後のボルトの記者会見での言葉である。
  
 
~これからは巨人達の戦い~
 
 これからは2㍍を越す巨人達の短距競争になるかもしれず、それによって記録も飛躍的に伸びるような気がする。そうなると、もはや怪鳥の走り、ランバード(スポーツメーカー、ミズノのマーク)に等しい。ミズノさん先見の明りましたね。
  
 でもボルトのシューズはプーマでしたが…。万物は進化、変貌するとはまっこと本当だわ、得心。ボルトに不撓不屈の精神を見ました。やっぱ、オリンピックは、世界一を争う男の仕事場だね。
 
 
初代タイガーマスクと楽しむ
 
 過日、暑気払いと称する食事会がありました。アオバ企画の高橋一専務の招待になものです。メンバーはデザイン会社ZAPP!の白金夫妻、小生夫婦、NTTFan+田村女史。まず丸の内ビル53階にあるモリタ屋で、しゃぶしゃぶを御馳走になりました。
 
 薄暮の皇居を眺めながらの食事会は、格別なものものでした。拙宅では滅多に高級な肉を使ったしゃぶしゃぶは食べられませんから、五臓六腑に沁み渡りました。
 
 ここで大満足して帰りましょうといったところ、銀座のクラブに行きませんか、少しだけ付き合ってください、と高橋専務。少しだけが日を跨いでしまった。クラブで遊ぶなんて何年振りだろう。カラオケもあって皆が歌う、昔とは様相がガラリと変わった、大衆的な銀座の夜でした。
 
 もうそろそろ帰る頃だと思っていたら初代タイガーマスク、佐山聡さんが
巨体を現した。また席は盛り上がる。佐山さんは酒を飲めないので、高橋専務は、彼の好きなケーキをどっさり買ってきました。
 
 時計を見たらあと30分で午前零時、これは潮時だと帰り支度にかかった。だが、またまた南千住の藤原敏男夫人が営むスナック「ロッキー」に行きましょう、とタクシーを呼んでしまった。
 
 藤原会長も舟木さんの来るのを楽しみにしていますので、と高橋専務は念を押す。てな具合でロッキーへ佐山さんと同乗して向かう。藤原夫人は家内も何度か一緒に飲んだことがありました。お店に着くやお互い再会を喜び合いました。
 
 
~二人のレジェンド選手と合体~
 
 カラオケ大会が始まった。私は佐山氏の歌は聞いたことがなかったので、オペラ歌手なみの声量と上手さには驚いた。プレスリーの曲から、ゴッドファーザーのテーマまで、原語で唄うのだ。やはり一芸に秀い出た人は、どこか違う。
 
 我々も唄ったが佐山氏のパワーに圧倒させられた。遅れて藤原敏男会長がM-1MC山本智さんを伴って駆けつけた。これで初代タイガーマスクとキックの鉄人藤原敏男の偉大なる格闘家が合体した。千両役者の揃え踏みだ。
 
 私とは両名とも35年に及ぶお付き合いになる。私がゴング編集部に在籍していたからだ。佐山さんが、新日本プロレスに入門して間もないころ蓼科の目白ジム合宿に参加した。色白でアンコ型のまだ少年の面影が残っていたの
を記憶している。
 
 当時目白ジムは、「鬼の黒崎」と恐れられた黒崎健時会長に率いられたスパルタ道場で、我々取材の者でも目を背けたくなるような場面もしばしば目にしました。稽古で少しでも手抜きすれば(私には少しもそう見えなかったが)、黒崎会長は選手を六角棒で思い切り殴った。
 
 こんな恐ろしいジムの強化合宿に佐山さんは、自ら志願して参加した。蹴りが本職のキックボクサーに混じってプロレスラー佐山は見劣りした。だが真剣に稽古に喰らいつく姿は、感じるものがあった。強いプロレスラーになりたい、そんな願望が迸っていたような気がした。
 
 
~屈辱をバネに飛躍した佐山~
 
 そして1977年(S52年)11月、日本武道館での格闘技大戦争に当時センセーションを巻き起こしてたベニー・ユキーデ(米)を旗頭とするマーシャルアーツ軍団が来襲、ここで佐山聡も新日本プロレスから参戦した。
 
 相手は長身のマーク・コステロ(米)、アンコ型の佐山は全身にキックの洗礼を受けダウンを重ね、いつタオルが入ってもおかしくなかったが、佐山は転びダルマのように起き上がった。結果は屈辱の判定負け。
 
 だがこの試練がタイガーマスクへと飛翔させた。間もなくメキシコへと修業の旅に出て、そして梶原一騎原作の劇画「タイガーマスク」の主人公に変身して凱旋帰国、忽ち日本中にタイガーマスク旋風を巻き起こす。因みに新日本プロレスの一番興行成績がよかったのは、タイガーマスク全盛時であるそうな。
 
 現在は武道格闘技「興義館」を主宰、青少年の育成に尽くし、かつリアル・ジャパンなるプロレスを後楽園ホールで定期興行する。押しも押されもしない格闘技界の重鎮である。 時に屈辱は人を大きくする、失敗は成功の礎となる。佐山聡はその見本である。まさに、主よ、我に試練を与え給え、です。
 
 そう佐山聡は敗北をバネに、あくなき成長を続けて、初代タイガーマスクは伝説のプロレスラーとなった。現役時代取材させてもらった私が、時を経てカラオケに彼と興じるとは人生捨てたもんじゃない。藤原会長ともども楽しい一夜を有難うございました。タクシーで自宅に着いたのは深夜1時半、久々に夫婦で不良しました。
 
 
腰痛に泣いた夏の日
 
 腰痛は痛い。脳天を刺すような痛みが襲う。寝る時、起きる時、寝返り打つ時、椅子から立ち上がる時歩くときにも…我慢できない痛さに涙がポロリと落ちる。♪おお神様 神様 助けて パパイヤー、助けて~。
 
 ことの起こりは、土曜日(17日)、ラジオ体操の前に自己流の予備運動で、いつものように腕立て伏せから腹筋をしていたら、随分今日は肩も腰も重いと感じた。この時点で止めれば良かったが強引に、励んだ。帰宅するや猛烈な張りを覚えた。肩と腰が鉄板のように凝り固まってしまった。
 
 そのうち歩行も困難になり、結局終日ベットでごろ寝、翌日曜日も家で塞ぎ込んだ。湿布薬を腰に貼ってはみたが一向に痛みは消えない。よくよく考えれば、露地栽培の畑仕事、同じ屈んだ姿勢で長時間働いていたことが腰への疲労を蓄積していたのが思い当たった。
  
 畑仕事の後は、入念なストレッチを行うことをここに至り肝に命じる。医者に行って、痛み止めの薬を大量にもらうのも嫌だし、何とか我慢してみよう。20日は少し痛みが和らいで、畑に水遣りに出た。でも、この痛みいつまで続くものかねえ…。
 
佐山聡さん(初代タイガーマスク=左)とキックの鉄人藤原敏男さんと、楽しい一夜を過ごした。
舟木昭太郎の日々つれづれ  

 
伝説となったウサイン・ボルト。北京(上)に続き、ロンドン(下)でも圧倒的強さで100、200を制した。

(※画像はWebより)

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