わがふる里を思う | 舟木昭太郎の日々つれづれ

わがふる里を思う

 私のふる里は、福島県東白川郡鮫川村。人口、既に5000人を切った過疎村。阿武隈山系の山奥深きところ・・・東北新幹線で新白河で降り、白棚線というバスに揺られ棚倉町の終点へ。そこからまたタクシーに乗って30分かかり、やっとわが実家にたどり着くというわけだから、やっぱり遠い。新幹線が走って便利になり、張りめぐされたアスファルト道路を疾走してでもある。
 我家の前にはその名も"鮫川"(さめがわ)と呼ぶ川が流れている。この川はやがて遠き旅路の果てに、太平洋岸のいわき市にそそぐ。そして市民の生命の水となる。つまり鮫川は、ヘビのように回りくねりながら、延々と流れる源流なのだ。鮫川という名は、昔上流にサメが棲んでいたからという民話がその由来だと。どうもこれは違うらしい。昔、人はサメを厄払いの神として祭っていたとのことで、どこかにサメ神社みたいなものがあったのではないか―と民話に詳しい友人が教えてくれた。いくらなんでも、太平洋からサメが泳ぎさか上って来るというのは不自然だし、その方が説得力がある。
 いずれにせよ、少年時代、夏休みとなれば、朝から晩まで姉妹たちと真っ黒になって泳いだものだ。当時は川の底まで透きとおって見え、ヤマメや、カジカなど泳ぎ回る姿が見えたものだ。野球が好きで、中学時代(鮫川中学)は、4番でファーストを守り郡大会で優勝した。勉強は、本を読むこと以外好きでなく、とにかく野球ができれば幸せという自然児で、やがて高校は石川町の学法石川高という学校に進んだが、入学後は全く野球に興味を示さなくなったのだから不思議。当時道路はじゃり道、デコボコ道で鮫川から町までバスで1時間近くもかかり、毎日胃痛で悩まされたものだ。あの青春の高校時代も懐かしい。友はいずこに、友は元気で居るや。
 そんなふる里に、4月16日、兄嫁の一周忌法要のため妻と一泊二日で帰ってきた。桜はおろか、まだ梅が満開で天気晴朗なれど風冷たく、まさに春は名のみであった。17日はお墓参り、父母兄弟にもねんごろに焼香して来た。そして一周忌法要もとどこおりなく終わった。法要の席は、中学時代同級生の蛇田武彦君が営む「滝」という民宿。彼とも懐かしい体面であった。法要の宴も無事終わったあと、蛇田君のバスで「カタクリの花」を見るために鮫川の源流に近い天狗橋という渓谷にみんなで出掛けた。時、まさにタイムリーで紫色のかれんなカタクリの花は渓谷に沿って群生していた。それはまさにおとぎの国のたたずまいで、見物の兄弟縁者は思わず歓声を上げた。私もふる里にいながら、これほど鮮やかに、しかも密生したカタクリの花を見たのは生まれて初めてで、感動した。
 空どこまでもあおく、天に窓があるとすれば一周忌のあの日、兄嫁(ミツイ)は下界をのぞき、あるいはつつがなく暮らす息子夫婦、孫達、それに夫の姿と見てさぞや安堵したのではないか。
 間もなく、わがふる里鮫川に遅い桜の季節がやって来て、やがて森羅万象、いっせいに緑の芽をふく―そんな情景を思いながら今日も新雑誌の製作に励むのです。ありがたき也わがふる里よ・・・。