富岡製糸場と絹産業遺産群が世界遺産に登録が勧告された

遺産群の高山社跡に4月末に行って来た


高山長五郎は高山村の当主で

田畑もなく山間部の高山村が繁栄するにはどうしたらいいのか考え

開港していた横浜に行き、沢山の本を読み

当時のヨーロッパで流行していた絹に目をつけて、養蚕の研究を始めた

金策に母屋を壊して木材を売ったりしながら

6年間の研究の末に蚕の飼育法に成功した

自宅の敷地に高山社を創り、養蚕の指導と共に指導者を育成した

指導者は各地に派遣し分教場で養蚕の指導にあたった

当時では珍しく女性も指導者になれた

甲種実業学校の認可を受け、甲種というのは

徴兵の免役が認められ、国の産業として重要だった事が分かる


嵐の桜井翔君のおばあさまがここに訪れ

祖母がここで学んだので一度来てみたかった、と言っていたという

当時の記念写真も残っていて、名前が判明したという事で、写真の横に桜井君のおばあさまのおばあさまの名前が書かれていた。

ここで4年前まで子孫のおばあさんが一人暮らしをしていたそうだ


国が栄え、民が豊かになるために努力した人だ


ガイドの人が分かりやすく説明してくれた

富岡製糸と共に

ヨーロッパへも売られる絹生産の重要な役割を

この小さな村でしていた

ここで生きた人の事を思う

こういうところの歴史って好きだなハート


残念なことにカメラの電池切れで写真が撮れなかった苦笑



1830-1886 幕末~明治時代の養蚕家。
文政13年4月17日生まれ。上野(こうずけ)緑野郡高山村(群馬県藤岡市)の人。清温育と名づけた蚕の飼育法を考案,用具も改良する。明治17年養蚕改良高山社を創立し社長となり,養蚕業の発展につくした。明治19年12月10日死去。57歳。名は重礼


明治1(1868)年温暖育と清涼育を折折衷した清温育と称する新しい飼育法を完成した。

同3年には自自宅内に高山組を組織して門下生の指導を開始

6年からは授業員(養蚕教師)を各地に派遣して巡回指導に当たらせた。

17年社員136人の協議により官許を得て養蚕改良高山社を設立。

長五郎病没の翌20年同社の事務所と伝教所が藤岡町に移設

分教場が群馬県内に122カ所,県外に10カ所設立され

33年には社員約2万人授業員500人生徒600人におよんだ。

34年伝習所は町田菊次郎らが甲種実業学校の認可を受け私立高山社蚕業学校に発展した。

<参考文献>『群馬県蚕糸業沿革調査書』,養蚕改良高山社編『高山長五郎翁略伝』