「許さーん」というと、仕事でへまをして、上司に「今度やったら許さないぞ」と言われたり、友達に悪口を言われて、「あいつだけは許さん」なんて言うこともある。
小さい頃、凶悪犯がこんな悪いことをしたというテレビの報道を見て、よく母親がテレビに向かって「許さーん」と叫んでいたのを思い出す。僕はそれを聞きながら、なんて力強い人だろうと思いながら、この人だけは敵に回してはイケナイと誓っていた。
一方「許せーん」はどういう時に使われているのだろうか。
高校時代、勉強嫌いの者同士でウダウダと茶を飲みながら「あーゆー付き合いの悪いガリベンは許せんよな」なんて言いながら、「付き合いのいい僕たち」を許し合っていたのを思いだす。
また、小学校の頃、上履きの靴のまま校庭で遊んでいて、ホームルームの時間に「そうゆうことは許せないと思います」と女子生徒に告発され、先生に大目玉を食らってしまったこともある。
テレビでは、時々思い出したように政治と金の問題が噴出する。政権が変わってもパターンは変わらない。取材の意向もあるのだろうが、いつもインタビューに答える人々は「許せーん」の大合唱である。
「許さーん」と言う時は、「私が」という主語が入っているように思う。事の良し悪しは別にして、「許さーん」と言う時は、何となく勇ましい気がする。
それに比べて、「許せーん」は「私」をチョッと後ろに置いて、「世間」を前面に押し出したような感じがする。「私が許しても、世間が許さない。だから、私1人が許すわけには行かない」ということだろうか。
そうなると、「私」がコントロールできるはんちゅうを超えてしまっている。
「許さーん」と言っていても、相手が反省して謝ってきたり、何かモノでもくれたりすると、結構機嫌が直って、意外に簡単に許しちゃうこともある。
しかし、「許せーん」という場合は、私が機嫌を直したところで、世間が許さない限り、許すわけには行かなくなってしまう。
「許さーん」というと、何となく私一人が勝手に怒っているようで、思わず「許せーん」と言ってしまう事もあるが、逆に引っ込みがつかなくなることもある。
もっと悪いことに、過去の自分の失敗などを振り返って、自分の行為が「許せーん」などと思うと、抜き差しならないことになる。「許さーん」ときは怒りが主役だが、「許せーん」ときは悲しみや苦しみが主役になる。
ただでさえ過去の行為に苦しんでいるときに「許せーん」まで入ってくると、自分で自分を世間に変わって裁こうとしだすから始末が悪い。
同じ「許せーん」でも、先生が生徒のためを思って「叱る」というような場合は、本人が間違いに気づきさえすれば、すぐにでも「許す」ことができる。
自分に対しても、間違いに気づき、ちゃんと反省できたなら、自分を「許せる」ようになる。そうすれば、外に向かって「許さーん」や「許せーん」と連発しなくても、けっこう機嫌よく生きられるのではないだろうか。