「チョッとちが~う!」は、普段何気なく使っているコトバのイメージを独断と偏見で膨らませていって、普段と違う所で少し遊んでみようというものです。
今回は、「やりがい」と「生きがい」のコトバを題材にしてみたいと思います。


「やりがい」は仕事、遊び、育児、家事など広い範囲でいっぱいある。また、いい面ばかりでなく、いじめや犯罪など人を傷つけることも含まれてしまうかもしれない。
高齢化社会で問題になっている老後にしても、仕事に「やりがい」を見つけて、一生懸命働き続けた結果、ある日定年をむかえる。「やりがい」をなくし、「生きがい」を見失ってしまい、急に老け込んだり、寝たきりになってしまう。「やりがい」を「生きがい」と勘違いしていた結果なのであろうか。


では、「生きがい」とはなんだろう。
イメージ・セラピーのワークショップに「最期のアリガトウ」というものがある。
『いま、死ぬとして、誰にどんなありがとうを言いたいか』を考えてみるのだが、このありがとうを考えて行くと、面白い副産物に出会える。

私の場合はこうだ。
奥さんへのありがとうを言おうと考えたら、自分がしてもらっていたことが山のように浮かんできた。私は奥さんを大事にしているとばかり思っていたのに…である。


私は意に反して?「不満や小言ばかり言っていた」という事実に気づいた。
例えば、愛しい奥さんをもっと広い家に住ませてやりたいと考える。一生懸命働いて、節約して、とやっているうちに、「私がこんなにやっているのだから、妻も協力すべきだ」と思うようになる。無駄遣いするなとか、電気を消せ、あれをしろ、これをするななどと、ワーワー言っていた。
今、私が死んだとしたら、彼女は二人の生活をどう振り替えるのだろう。二人にとって部屋の広さよりも、大事なものがあったんじゃなかろうかと。


奥さんだけでなく、親や兄弟、友人や仕事関係の仲間に対しても、私は同じような態度で接していたことに気づいてびっくりしてしまった。
私は「非常にややこしい生き方をしてきたな」のではないだろうか。相手のためにと思っていながら、相手への不満をつのらせるという結果になっていたのである。


考えてみれば当たり前の話かもしれない。
誰でも好きな人に会えば、(異性に限らず)喜ばせてあげたいと考える。おいしいラーメン屋を見つけたから、と言って食べに行った結果、相手においしくないと言われ頭に来る。映画に誘って、何を見るかで大ゲンカしてみたり…。もともとは、相手を喜ばせようと思って始めたはずなのに、いつのまにか「自分の思わく」が大事になって、相手が二の次になってしまう。


「やりがい」というのは、もともとの「思い」と「自分の思わく」とが、いつのまにか摩り替わっていても、意外に気が付かないものかも知れない。
たまに自分の「生きがい」について考えてみることで、自分の本当の思いが再確認できるのではないだろうか。
しかも、うれしいことに「生きがい」に気づくことで、広い家に住まなくても幸せになれるのである。


なんと経済的な「生きがい」の発見であろうか。これなら「奥さん孝行」にも、もっと「やりがい」が見出せるに違いない。こんなことならば、もっと早くに気づくべきであったと思うのは、私一人ではないと思うのだが…。