人間関係において、相手を「責める」気持ちになったり、実際に言葉で「責める」ということはよくあることだと思う。
子供に対して、「言いつけを守らなかった」ことを責めたり、ご主人に「いつも帰りが遅い」ことを責めたり、奥さんに「掃除が行き届いていない」ことを責めたりする。


しかし、責めているほうが100%正しいという保証はないし、責めているほうがむしろ悪いことだってある。
お互いに相手を責めて、「どちらが正しいか、出るところに出ようじゃないか」となり裁判を起こす。昔であれば大岡越前守が出てきて、両者に対し「裁き」を行なうことになる。


 裁くというのは、物事を公正な目から判断して、功罪を決めるということだろう。
現代では裁判所で、両者の言い分を聞いたり、周辺の人の話を聞いたりして、どちらにどの程度の分があり、非があるか考慮して判決を下す。


このように書くと、当たり前の話として、何の問題もないのだが、日常の人間関係で相手を責めたり、責められたりしている時は、案外「責める」ことと「裁く」ことをセットにしているのではないだろうか。
子供が宿題もしないで、遊んでばかりいることを責めて、「夕飯は無しよ」という判決を言い渡したり、ご主人が妻の誕生日を忘れたことを責めて、小遣いを減らすという判決を言い渡す。

自分ひとりで「責める」ことと、「裁く」ことの両方をこなす事が多いように思う。


本来「責める人」と「責められる人」がおり、両者より見識が高いと思われる人に、「裁いて」もらうのがスジだと思うのだが、えてして、相手を「責める」勢いで、そのまま「裁いて」しまうことがある。
もちろん、自分の利益ために、相手を「責める」ことばかりとは限らない。

相手のために、冷静にミスを指摘し、反省を促してもっと良くなってほしいと願うこともある。

でもそういう時は「裁く」ことはしていないように思う。


自分が、感情的になればなるほど、「裁く」ところまで行かないとムシが収まらないのかもしれない。
せめて、感情的に「責める」のはしょうがないとしても、「裁く」ときは、自分が冷静かどうかを考えてみる必要があるのではないだろうか。


 しかし、冷静なつもりでも、意外に不確かな「裁き」をしている場合がある。
それは、自分で自分を「責めて」いる時である。

人を責めている時は、「時間が経つ」ことで冷静さを取り戻して、平安な気持ちで解決していけることが多い。

が自分を責めている時は、「時間」は永遠に止まっており、責めさいなむ気持ちは収まらない。
そこで、自分で自分を「裁く」ことになる。


しかし、この「裁き」を信じてはいけない。

「責めさいなむ自分」が「責める人(自分)」と「責められる人(自分)」を「裁く」ことになるからである。
私も人を責める時は威勢がいいのだが、自分を責めだすと、急にしぼんでしまう。

「裁き」の結果行き着くところは、自己卑下か自己憐憫になることは目に見えているからである。

人に厳しく自分には甘い?私なのに、一度「自分に下した判決」を許すのは、思いのほか困難なことのようである。


「人を呪わば穴二つ」ではないけれど、人を裁くことが多いと、自分を裁くことも多いようである。

自分を責めて許せない時は、人を許す練習をしていくと、案外有効かも知れない。

人を裁かないようにしていると、ついでに、自分を裁くこともなくなるのではないだろうか。