■「かわいそう」だけでは守れない──アーバン野生動物時代の現実と責任

山のニュースが賑わう季節になると、毎年のようにクマ出没の話題が飛び込んでくる。
最近では、山奥だけではない。
住宅街、駅前、学校、公園、スーパーの駐車場──。
かつて「人の気配がすれば逃げる臆病な野生動物」だったクマは、今や堂々とアスファルトを歩く。

この現象は単なる偶発的な迷い込みではない。
“アーバンベア”という、新しい行動様式を持ったクマが誕生している。
背景にあるのは、クマの持つ高い学習能力だ。

一度、人里で餌を得て、危険がないと理解すれば、クマはそこを「生存に適した場所」と認識する。
そして、その行動を次の世代に伝える。
野生動物は環境に適応する。
環境が人間社会であれば、そこへ適応する。
それは驚くことでも、クマが悪いわけでもない。

問題は、人間側がその現実を理解しきれていないことだ。

「かわいそうだから捕獲するな」
「山へ帰してあげればいい」
「本当はクマは優しい生き物」

そんな声が、SNSやテレビでしばしば見られる。
感情としては分かる。
ただ、それは“優しさ”ではあっても、自然への責任ある態度とは言えない。

なぜなら、
野生動物を野生から切り離しておいて、“保護”と言うのは矛盾だからだ。

人里でゴミを漁り、柿を食べ、犬や猫の餌を奪い、家庭菜園を破り、人間の生活圏を学習したクマを、
ただ「かわいそう」で山に返しても、また戻ってくる。
それは、クマが“悪い”のではない。
そう学習させた環境を作ったのは、人間側だからだ。

だからこそ、アーバンベアを「無条件に保護すべき」と言う声に対して、私は違和感を持つ。
それは、自然保護でも、共存でもなく、
現実から目をそらした感情論だと感じる。


■クマだけが特別じゃない──アーバン化する野生動物たち

重要なのは、アーバンベア現象はクマだけの話ではないということだ。
ここ数年、カモシカが街中を歩き、シカが駅前の植え込みを食べ、イノシシがゴミステーションを荒らす映像は珍しくない。
アライグマやハクビシン、タヌキ、カラス、キツネも都市に適応している。

つまり、都市型野生動物は既に多数派なのだ。

たまたまクマが“人間に危害を加えられる”サイズと力を持っているから問題になっているだけ。
危険が見えるから騒ぐ。
見えない危険は放置する。
これこそ、人間の都合であり、まさに“エゴ”だ。

私は「エゴが悪だ」と言いたいわけじゃない。
人間は文明を持ち、都市で生き、自然の中でも活動する。
その営み自体が自然界に対する“介入”なのだから、
エゴをゼロにすることは不可能だ。

ただし、
エゴを自覚しないまま、正義の顔をして自然を語ること
それこそが最も危険だと思う。


■本当の「共存」とは線を引くこと

動物を守りたいなら、まずは現実を直視しなければならない。
共存とは“仲良しごっこ”ではない。
互いに生きられる距離と条件を整え、その境界を保ち続けることだ。
ゴミを管理する
果樹を放置しない
緩衝地帯を設ける
山の餌資源を確保する
人慣れ個体は排除する

これは“残酷”ではなく、本来の自然保全だ。
野生動物を野生のまま生きさせるための現実的な選択。


■自然は“優しさ”では守れない──山で感じる緊張感

私は山でキャンプをする。
夜、ランタンの灯りの外は、ただ深い闇だ。
風の音、草の揺れ、小枝の折れる音──。
自然の中では、人間はとんでもなく小さな存在だと痛感する。

その緊張感こそ、自然への敬意だ。

食べ物を放置しない、匂いを残さない、音を出す、距離を取る。
**「自分が侵入者だ」**という意識を忘れたら、山に入る資格はないと思っている。

だから、アーバンベアを“かわいそうだから守れ”という言葉を聞くと、
その裏にある、
「自然を自分の感情尺度で扱う」無自覚な傲慢さが気になる。

自然は、優しさだけでは守れない。
守りたいなら、時に線を引き、手を動かし、管理しなければならない。


■野生への敬意とは──お互いが踏み込まないという知恵

クマを悪者にするつもりは一切ない。
彼らは賢く、強く、そして本来は山で静かに生きる存在だ。
人間の出す匂い、食べ残し、放置された果樹やゴミ。
それに惹かれてしまうのは、彼らのせいではない。

人間が作った状況なら、人間が責任を持って整えるしかない。

野生に敬意を払うとは、
境界を尊重すること。

山は山の民(動物)の場所
里は里の民(人間)の場所
道は共有の境界線

このバランスを守るのが、現代人の役割だと思う。


■結び──守るとは、距離を置く覚悟

可哀想という言葉は、時に残酷だ。
それは、自然を「自分の物語の中に閉じ込める」行為にもなる。

クマを本当に守りたいなら、
人間の生活圏に“慣れさせない”。
慣れてしまった個体は、申し訳ないが排除せざるを得ない。
それが未来の事故を防ぎ、野生を守る道だ。

野生は触れ合うものじゃない。
敬意を持って距離を保つものだ。

自然は友達でも敵でもない。
ただそこにあり、尊いだけだ。
人間もその中で生かしてもらっている──
その謙虚さを忘れない限り、きっと共存はできる。