私の大好きな書籍『7つの習慣』では、
第一の習慣「主体的である」ことが大切、
と書かれています。
というスタンスで日々生きています。
生きているつもり、でした。
先日、ある出来事があり、
主体的に生きているつもりでも
人生の舵を他人にあけ渡していたことに
気づいたのです。
それをシェアさせてください。
私が通っている整体の先生は、
整体中になかなか哲学的なことをおっしゃいます。
整体中に、満員電車の話になりました。
私「満員電車とか人混みが苦手なんですよねー」
先生「それは、山口さんの思い込みだよね」
私「え?先生は、満員電車とか平気なんですか?
みんなイライラしてて、良くない気が漂っていて
そういう気にあてられて疲れちゃうんですけど」
先生「僕は、何も思わない。
ただ、人がたくさんいるんだな、
こんなに人がいても暴動も起きなくて日本は平和だな
と思うだけ。
毎回、『人混みがいやだなあ』と思って乗ってて
損しているのは誰だと思う?」
山口「損?それは・・・
毎回イヤだなあと感じている自分ですか?」
先生「そうだよね。事実にイヤだなあとラベルをつけることで自分が損しちゃうんだよね、
そうやってラベルをたくさんつけて、あれもキライ、これもイヤって言っていると、すごく生きづらくなるよ。
自分が被害者でいることを選択しているわけだから」
山口「確かにそうですね。
自分で被害者でいることを選んで、
勝手にイヤだなあと思っているわけですからね。
あと、私、タバコ臭い男性も苦手で、電車とかで隣に座られるとブルーな気持ちになるんですが、そういう人ばかり私の隣に座るような気がしてました。その世界も自分で選んでいたのですね!」
先生「そうなんです。自分でそういう現実を創っているんです。
好き嫌いがあるのは悪いことではないけど、物事をひとくくりにマスで見るのをやめて、もっと細かく観察してみるといいですよ。
人混みやだなあ、とかタバコ臭い人やだなあ、じゃなくて、ああこの人はどんな仕事をしてるんだろう、どんな家族がいるのかな、みたいに一人ずつに興味を持つと意外と平気になったりするから試してみて。
あと人混み、って言うけど、山口さんもその人混みの中の一人ですからね^^」
山口「確かに!」
いつも『7つの習慣』で「主体的である」ことを心がけていたのに、電車に乗ると、「受動的」になっていたことに気づきました。
自分は何の力もない、被害者だ、みたいに自分を捉えていたのですね。
そして、確かに満員電車というひとくくりで見ていましたが、そこにたとえば友人が乗っていたら、その人のことはイヤではないし、タバコ臭いオジサンが嫌いと言っても、尊敬する恩師がタバコを吸っていても何も感じません。
個別に(人として)見ればイヤじゃないのに、一般化して、(ひとかたまりにして)ラベルを貼って「嫌い」と決めていたのは私だったんですね・・・。
さらに先生は言います。
先生「タバコ臭い人が隣に座るといやなんですね?」
山口「ハイ」
先生「山口さんは、自由が好きですか?」
山口「ハイ」
先生「今までに一度も人に迷惑をかけてきたことはない?」
山口「いえ、あると思います」
先生「だったら、その人がタバコを吸う自由を認めてあげないと、山口さんの自由だってなくなるよ。
山口さんだって他の人に知らずに迷惑をかけてきたことだってあるんだから。
お互い様だよね」
そうか、お互い様なんだ!
自分の自由を主張するなら、相手の自由も認めないと。