肖像画 …  想像か ?  想像か ?   (つづきの続きは仕舞いどす) | 魚歎のブログ

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[羅網之鳥恨不高飛、呑鈎之魚歎不忍飢」今この言葉を噛み締め、後悔しながら毎日をおくる、
ひたすら部屋の中と脳内をさすらう老い耄れのブログ。

クソッ! (冒頭からなんと下品な俺!)


アメブロのメンテ、

[02:00~08:00まで全てのサービスを停止させていただきます]とありました。


前回

01:55だったので

書きかけのブログを途中でしたがアップしました。


後、

メンテまだ少し時間があったので、

ギリギリまで続きを書こうと思って続けたのですが、


気がつくと、午前二時過ぎ、

「あれ? 時間になっても大丈夫じゃん。そうか、そうか!

一旦中に入っていれば、記事は描けるのか。 よーし、少し調子が掴めてきたから、流れに乗って、このままある程度文章を書いちゃおっと!

 大枠を作って、後で 写真と説明を入れていけばいいもんな。 どーせ、寝れないし、ガンバっちゃお~っ!」


この先待ち受けている悲惨な状況を夢にも思わず、


あーだ、こーだと書き進めて行きました。


ある程度大枠ができたので

写真を入れようと…


「ん、?画像のボタンをクリックしても、メンテ画面しか…」


漠とした不安が胸を横切りましたが、

阿呆な魚歎はまだ気がつきませんでした。


「ちぇっ! これじゃ作業が進まないじゃないか!どうしたアメブロ!何を考えているアメブロ!」

(この時点で、メンテの事前お知らせ内容の事なぞ頭にない、鳥頭な魚歎でした)


にんにく、いや、しょうがないので、

一旦保留にしょうと、今度は下書きボタンをクリックしょうと思い…


「な、なんだ~あ、クリックできない。 何故?、何故なんだ~!」

(そりゃあ、メンテ!メンテですって)


どーしょう?と、うろたえた魚歎は

「そーだ、全文選択してコピーすればいい、さすが俺!」と


コピーして 安心して 電源を切りました とさ


その後、丸丸一日半鬱鬱としていたのは云うまでもありません。

(しかも熱でたし…寝込んだし!)


チャン、チャン !!


で、改めて書き直します。

(これでブログ再開して、書き直し何回目だろ?)


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


気を取り直して…

えーと、

前回どこまで書いたんだっけ?


時代様式が違うのでは ? と、直感で明治期のものではないかと思った

ってとこまででしたね。



魚歎のブログ-信長肖像宣教師

此の絵そのものには

違和感を覚えたものの、

「来日した宣教師が、信長の肖像を描いた」と云う事は 以前から知っていました。


遠藤周作が著書のなかで、触れていたからです。


氏は この時代の小説を幾冊か書き(熱心なクリスチャンであったせいか、、戦国から江戸初期の布教と日本人に興味があったようです)その中か、エッセイや対談だかに、その事を書いていました。


でも

本を読んで思い浮かべたその肖像画のイメージは、

南蛮美術の

そう、

ザビエルの肖像画の様式で描いた、信長像と云ったものでした。


魚歎のブログ-bati

                 こんな感じどぇす。 (なんと罰あたりなことを…)


目にしたものが

当時

頭の中で想像していたものと、あまりに違ったものだったので驚きました。


番組のなかでは、宣教師画家が描いたぐらいしか触れず

「信長さん、実際はこんな方だったのですね」と云ったコメントでした。


その後も、この怪しげな肖像画は何回か同様な番組でみましたが、

どれも だれが描いたかとか、

どのような来歴かとかの詳細は一切紹介されませんでした。


今回ブログ記事を書くにあたって調べてみたところ、


作者と伝えられているのは、


イタリアの宣教師画家 ジョバンニ・ニコラオ(1562年-1626年)で、この方はイエズス会から派遣されて、神学校で開かれていた西洋画教室で 西洋画技法を教えていた教師だったそうです。

その後の南蛮美術の基礎を築いた方だとか。


材質は洋紙に木炭かコンテ、あるいは銀筆。


このドローイング、制作時期は1583年~1590年のあいだではないかと推定されています。


来歴は


信長の死後に、織田信雄がニコラオに依頼したもので、

信雄の死後、子孫の天童藩 織田家に 代代伝えられたもの。

(何かの折には、この肖像画を掲げて、信長を偲んだとか)

それを明治期に

原画を撮影して、宮内庁、天童織田家、その菩提寺の三宝寺に各一枚づつ収められた。


ただ

原画は焼失。

宮内庁、織田家に収められた写真も失われ、

現在は三宝寺に残る写真が、唯一残っているだけとの事。


どうです?

人によってはミステリアスに感じられるでしょうですけど…


(題材的にはミステリーにすると面白いでしょうね。時空を超えた400年の謎!

信長の肖像 なんてね)


魚歎ははっきり云ってかなり怪しいと思っています。


なにが怪しいかって云うと、このドローイング自体です。

(やっぱ、どー見たって信長の時代じゃないでしょう。しかも焼けただあぁ~?

真贋の証明のしょうがないじゃないか!)



創作には、

時代によって技法や様式のようなものがあって…


って云うか… う~もう、


魚歎

頭悪いし、論理立って考えられないし、云えない!

しかも絵画の知識も、人にちゃんと説明できるほど無い! 無い無いづくしの人間です。

(でた~!得意の思考放棄!開き直り!)


ですから、

実際に同時代の絵画等を見てもらった方が分かりやすいのではと考えました。


(絵画の歴史や時代様式の、いかがわしくない真っ当な話は、私の尊敬かつ敬愛する「syokei」さんの過去ブログに書いてあったような…気がするけど。どうだったっけ?)


この信長の肖像が描かれた時代は安土桃山時代と云われています。


西洋の美術の歴史から云うと、

ルネッサンスからバロックのあいだ、マニエリスムですね。

だからその時代と前後の、

代表的な画家の作品を適当に並べます。本当に適当ですよ。

(これまたお得意のいい加減!)


どうぞ、

先程の信長の肖像画と比較して見てくださいまし。



魚歎のブログ-ルーベンスの自画像

               自画像 ルーベンス  ベルギー 1577年~ 1640年

(魚歎は「ルーベンス」と聞くと、パブロフの犬的に、涙が出てきます。特に涙もろくなった今、ブログを書きながら滂沱の涙を流しています。なぜかって? そりゃあもう、パ、パトラッシュを思い出して…ワォーン! 涙 )




魚歎のブログ-エルグレコ愛人の肖像

               女性像(グレコの愛人) エル・グレコ ギリシャ 1541年 - 1614年

       (あ、愛人?って、グレコ 愛人描くなよ…世界平和の為に奥さん描けよ!)





魚歎のブログ-ティントレット

               自画像  ティントレット  イタリア  1518年~ 1594年

               (この人知らん!)



 

魚歎のブログ-ニコラプッサン自画像

            自画像 ニコラ・プッサン  フランス  1594年~ 1665年

               (辛気臭い顔だこと… って、ヒットラーに似てねぇか?)




魚歎のブログ-ヘンリー8世の肖像1536年

             ヘンリー8世肖像  ホルバイン  ドイツ  1497(98)年~1543年

(ヘンリー8世 この人、(信長に持たれている)暴君のイメージそのものです。気に入らない人を、頸チョンパ!この気難しいヘンリー君に、どういう訳か ホルバインさん 大変気に入られているんですよね。 この絵を観ていると、ホルバインって大変冷静な人だったのでは?と思います。 ちなみにヘンリー君、6回くらい結婚しているのですが、その4人目の奥さんを、実物と肖像画があまりにも違いすぎると、怒って、すぐ離婚したそうです。昔も今もかわらないのが人の世ってとこですかね。その肖像画を描いた画家、売れっ子だったでしょうね。しかしこのヘンリー8世の風貌、ソーセージ屋のオヤジにいねぇかい)




魚歎のブログ-レンブラント自画像

               自画像   レンブラント  オランダ  1606年~ 1669年

(でたー! 一般的に云って、大変ゆーめーな人ですよね。光の画家と云われたお人で、カラヴァッジョ派の明暗技法を発展させたと云うか、革新的な光の用い方でリアリズムを追求したと云うか、とにかく絵も破滅的生活も すげーぇ人です。 絵画の物語性と云う側面は置いといて、この光の使い方というところに着目して、他の肖像画と見比べてくださいな)




          


魚歎のブログ-ティツィアーノ・ヴェチェッリオ自画像1567                
              自画像ティツィアーノ・ヴェチェッリオ イタリア  1488(90)年~1576年
(イタリア絵画界の重要な画家の一人で、星星を従える太陽と形容されたくらいおえらい方だそうです。次世代にも大きな影響を与えたとありますので、もしかしたら 信長の肖像画を描いたとされるジョバンニ・ニコラオにも影響を与えたかも?ネ)




魚歎のブログ-アンニーバレ・カラッチ 1590~1600
            自画像  アンニーバレ・カラッチ イタリア  1560年~1609年 
(イタリアの初期バロック様式を確立した、カラッチ一族を代表する画家で、門下から多くの画家を育てている。とあります。年齢はジョバンニ・ニコラオとほぼ同年齢ですね。こりゃまた もしかして…  なんてね!)

どうですか?

件の肖像画と
今までお見せした肖像画、
陰影、光の用い方、空間の表現性など比べていただいて、どうでしょうか?



デッサンと油絵を比べても、よー分からんと…


まあ、たしかに…。


ん、じゃあ

今度はドローイング同士で比べませう。


               
            魚歎のブログ-デューラー素描、銀筆画1497頃

            素描   デューラー ドイツ    1471年~1528年

(時代からすると少し古いものを持ち出しましたが、まあ、勘弁してください。これは銀筆で描かれています)



魚歎のブログ-アンニーバレ・カラッチのデッサン

             素描  アンニーバレ・カラッチ

(これは先程自画像でご紹介した、アンニーバレ・カラッチのドローイングです。コンテでしょうか、よく分かりませんが。しかしニコラオと同世代と云う事から十分に比較の対象になるのでは)





魚歎のブログ-ルーベンス 習作

          習作  ルーベンス

(これも最初にご紹介したルーベンスのものです。あ、また涙が…   続けて同じくルーベンスのものを二点貼り付けますね)





魚歎のブログ-ルーベンス 1625
                習作 



魚歎のブログ-ルーベンス習作少年
                習作   少年


こんなところですかねぇ。
他のものも 大体このような感じと云うか…


織田家に伝わったと云われる肖像画との大きな違いは、

ご覧になってお分かりでしょうが、線をおもに使用したものです。


明らかに手法が違いますし、もう一つ

あり得ないと思う理由があります。


この時代 ドローイングは、それ自体が作品ではなく、

あくまでも 作品のための下絵と云うか、習作と云っていいのではないかと思います。


魚歎のブログ-泰西王侯騎馬図屏風

       泰西王侯騎馬図屏風
(神学校の西洋絵画教室が母体になり、南蛮美術と呼ばれる作品群ができた。その代表と云われる作品です。比較的初期の頃と云われていますので、ニコラオの影響が色濃く残っていると云われています。でも、あまりに肖像画の画風と違うと思いませんか)



想像してみて下さい。


異国に赴いて、

キリスト教 布教の為の手段として、

西洋文化の素晴らしさを、権力者にアピールし 取り入り、普及させようとしている。


その中で 宗教者と同時に画家としての己は、

西洋絵画の素晴らしさを知らしめるべく日日活動している。


ある日

日本の有力大名から(もしくは信雄がもう隠居している時期かもしれないが…)
お呼びがかかる。


訊けば、

かの有名な king of ZIPANG 信長様の、在りし日を偲んで 肖像画を描けと云う依頼であった。

巧くいけば、会にとっても自分にとってもいい話に違いない。


魚歎のブログ-ザビエルの肖像 魚歎のブログ-救世主像1579


















ザビエル像 (南蛮美術)

                                         

                                   救世主像 (南蛮美術)


(両肖像画もニコラオの影響を受けているとしたら、やはり、違いすぎると思いませんか)


そう云うシチェーションの中で、


下絵や習作の意味合いが強いドローイングを献上すると思いますか?

そんな失礼なことをするとは考えられないのですが…


そりゃあ~似ているかとか、信長の偉大さを表す道具立てはこれでいいかとか

OKを貰う為に下絵を描いていた可能性はありますが、


断じて、

デッサン自体を献上する事は考えられないのであ~ります。


やはり、此処は

使用する材質は何にせよ、きっちりと聞き取りをして、彩色をした、

自分の最高傑作を献上するのではと思います。


そう云った意味でも、

今は写真一枚しか残っていない信長の肖像は怪しいのです。


それと

前に明治期のものではないかと思ったと書きましたが、

具体的に云うと、

信長の肖像を観た時、この肖像画が思い起こされたのです。



魚歎のブログ-西郷肖像
                西郷隆盛肖像 キヨッソーネ  1833年~1898年 イタリア
(1875年来日のキヨッソーネさんです。ご存じのように 日本の紙幣、切手印刷の父と呼べるお方です。昔昔はたしかキヨソネって習った記憶が…)

大変有名な西郷隆盛の肖像です。ちょっと説明すると、
西郷の肖像の依頼を受けたキヨッソーネは困ったそうです。
生前の西郷さんは有名な写真嫌いで、一枚も残っていなかったそうです。そこで弟の西郷従道と従兄の大山巌が似ているのではないかと、モデルを頼み、二人の特徴から想像して、この肖像画を創ったそうです。
ちなみに上野の西郷さん、
このキヨッソーネの肖像をもとに、高村光雲が作成しました。
除幕の日、来賓として出席した西郷の奥様、
西郷像を観て「あのぅ、これは誰の像でしょうか?夫の像は何処に…」
と云ったとか。 
おっと
また脱線した。


しかし

脱線ついでに、清曽根(中学の時、こう落書しました)さん作の肖像をいくつかアップします。


魚歎のブログ-明治天皇の肖像画

             明治天皇肖像



魚歎のブログ-大久保の肖像

                大久保利通 肖像



魚歎のブログ-三條実美の肖像画

             三條実美 肖像



魚歎のブログ-信長肖像宣教師

                  又又、登場 怪しい信長肖像



魚歎のブログ-西郷

これはキヨソネとは関係なく、西郷の影武者を務めた人物の、写真と云われているものです。

でも写真と云うより、肖像画じゃないかい?いずれにしても明治期のもの。参考までに。


どうでしょう~?

魚歎が云っている時代が違うって意味わかっていただけたでしょうか?


しかし、魚歎は

全てを否定しているわけではないのです。


宣教師が描いた信長像が本当にあって、

それが天童織田家に伝わっていた可能性はあるかもしれません。


それが、

様様な事情や 色色な人の思惑で、この肖像画の写真が、現在のような形で残る事になったのでしょう。

善意からか、悪意からかは別にして。


それこそ沢山の想像はできます。


でも

できればそれが、


実はキヨッソーネが描いたものだとか、


宣教師が描いた油絵の他に実はその下絵が残っていて、油絵は消えたが 下絵が

天童藩織田家に伝えられのだが、明治期に焼失し、

再現修復を請け負った画家が、美学校で習った木炭デッサンで信長を描いたから、今のものになった。

とか、

ユーモアや夢のあるものであって欲しいッス!


しかし

こうやって色色な肖像を観てきたけど、

描かれた人物の本当のところは分からないよな~。


あくまでもクライアントの気に入ったものだったのでしょうから、誇張はあるし、

作為や想像や色んな事がはいっているからなぁ。


ああ、そうそう、

高校の時だったっけ。

ある夫婦の肖像を観て思った事。


魚歎のブログ-お市の方の肖像

その夫婦とは

浅井長政、お市の方のお二人です。

若き日の魚歎は、

お市の方のこの肖像を観て、たしかに美人ではないかとは思いました。

戦国一かは別として、肖像から想像すれば、なかなかの美人かなと思ったのですが、

もう一方、


魚歎のブログ-浅井長政の肖像

夫君の

浅井長政さん、ひじょーに残念でした。


たしか、

色色な本には、

美男美女のめおとだとか、

長政は若き時から、大変な美男子だとか、

これは司馬遼太郎だったな、

長政は武勇に勝れ、大変な美丈夫だった。と書いていました。


魚歎、当時 どー見たってナマズ顔じゃないか!と失望しました。

ま、

たしかに優しい感じは出てますけどね。

(お市の方には非常に優しく、夫婦仲はよかったそうです。うらやましい)


あの時思ったのですが、

肖像画をみなければよかったとひじょーに後悔をしました。


本の様様なエピソードから想像する、自分だけの武将像。

これにつきますね。


そう云う意味では

今流行っている歴女のお好きな現代的ビジュアル型武将像、

史実と違うとか

あんなんでないとか

否定することはできませんね。

あくまで、ご本人の好みのものですから。



しかし、

どーでもいい事を長長と書いてしまった。熱に魘されたかな?