鬼滅の刃の話です。
無限城編第一章を観て
そう言えば、無限城、闇夜にしとけば、人間がめっさ不利だよなぁ。
でも、随所に張り巡らせた照明、凄いねぇ。
鳴女さん、凄い事やってるねぇ…
と、LiSAさんの曲を聴きながらぼんやり考えつつ、運転している私。
(危ないです)
また観られたら良いなぁ…。
もう駄目かしらねぇ…。
鬼滅の刃の話です。
無限城編第一章を観て
そう言えば、無限城、闇夜にしとけば、人間がめっさ不利だよなぁ。
でも、随所に張り巡らせた照明、凄いねぇ。
鳴女さん、凄い事やってるねぇ…
と、LiSAさんの曲を聴きながらぼんやり考えつつ、運転している私。
(危ないです)
また観られたら良いなぁ…。
もう駄目かしらねぇ…。
本日、認知症の日だそうです。
家族という、関係者にならなければ知ることがなかった日。
人間って、案外そんなもんで、なってみないとわからない生き物だと思います。
化学物質過敏症もね。
で、今日もせっせと認知症カフェに行ってきます。
14:30以降に来てくださいって言われたから、それに向けて準備中です。
昨日は、出身高校の近くで認知症カフェをやってたんで、参加してきました。
主催者の方はやはり福祉関係の人。
あとは、少し今の気持ちと相容れない方向の話をしている方が中心だったから、ビミョーでしたが、隣に座られた方がまた、色々と縁に共通項があって、宮重大根で盛り上がるという🤣
月2回やってるようなので、無理の無い範囲内で暫く行ってみたいと思います。
さて、とりあえず、つらつらと。
親父の会社が傾き始めた頃、少しずつ、あれ?
ってことを感じ始めた。
産まれた病院の、仲良くさせていただいていた看護師さんに、何か変と相談。
老年内科の医師と繋がる。
えっ?
約30年前の研修医の時に、入院した私を担当しましたね?w
そんな腐れ縁の医師が、父の認知症の担当医となった。
そんなこんなで、少しずつ父は、あれ?
と思うことが増えてきた頃、会社を畳む事となり、認知症が裁判所にバレると、会社を畳めなくなるため、隠し通して会社を終わりにする手続きを、弁護士と私が頑張った。
理由として、認知症の人は判断能力無しと判断され、誰かに事業承継をしてからじゃないと、畳めない。
当時負債を抱えた会社を私が継承してから…という選択肢もあったが、会社の連帯責任者が父だったため、それもなかなか難しく。
まあ、色々ややこしい事情があって、認知症を隠す方策を、弁護士と選択した。
そして無事に会社は終わらせることができた。
弁護士と初めて面談してから1年強だった。
そんなこんなで会社を畳んで、私も無職となり、自分で作った離職票やら退職証明書を持ってハローワークに行った。
行きながら求職活動をしたが、ハローワークが猛臭で、化学物質過敏症のためにハローワークに行けなくなり、傷病手当金(失業保険の代わりに受け取れるもの=同じ金額)を受け取る手続きを、そよ風クリニックの先生に、毎月お願いしながら満期までやり過ごしてハローワークの権利を使い切った。
そのお金で、小型バイクの免許を取って、スーパーカブを買い、ウーバーイーツを予測して動いたつもりだった。
そんなこんなで、借りてる家も半世紀を超えていつ崩れてもおかしくなく、やばいよねってことで引っ越す事になり、無事に引っ越してから3ヶ月で母がヘルペス脳炎で倒れる。
そこから母も危篤になったり。
ひとりの時は泣いて暮らした。
車の中で大声で涙をだーだー流しながら運転した日もあった。
(視界不良で危ないですw)
それに引きずられるように、父も少しずつおかしさを増してきた。
母の介護認定をする手続きを病院がしている間に、病院からケアマネを探すように依頼された私は、初めて住所地を管轄する地域包括支援センターに飛び込んだ。
最初に担当したのは、おそらく新人。
私の質問に、いちいち、後ろの人に聞きに行っていたから。
その人や、船場吉兆お女将バリの後ろの人にイライラしながらも、最初は何とか情報を得ようと歩み寄ってみた。
しかし、引っ越して半年も経ってなくて土地勘もわからない場所にいる私に
『化学物質過敏症という特殊な事情があるなら、私達が探したとしてもわからないから、ご自分で探してください』
と、冊子を渡されただけだった。
地図もあったが、どこに、新しい家があり、どこが家から近い事業所かもわからない。
公平性から特定の事業所は教えられないってのはわかるけど、家から近い事業所をピックアップしてくれても良いんじゃない?
新人に
『あなたが知らない土地で同じ事されて、探せる?』
何度も聞いたけど俯いたまま黙っていた。
女将にも同じ事を言ったが
『特定の事業所は教えられない』
の、一点張りだった。
阿修羅のごとく怒りを覚えた私は、名古屋市の地域包括支援センターを取りまとめてあるところをホームページで探して、そこの問い合わせメールから、出来るだけ齟齬が無いように、事細かに対応された事象を長文にしたため、最後に
こんな地域包括支援センターなんて潰してしまえ
と締めくくった。
暫くして、送り先の担当の方から丁寧なメールの返信が届いた。
引っ越し直後のわけのわからない状態で、いくら特定の事業所は教えられないとは言え、寄り添いが足りなかった件を謝罪され、担当者の名前を聞かれ、居住地担当の地域包括支援センターには、注意喚起をすること、もっと寄り添うように指導すること、我が家の担当は違う人に必ず変えると約束しますと書いてあった。
また、ケアマネを探す際に
『あのー、ケアマネって人を探しているのですが』
と電話をしたら、全事業所が
『はあ?』
と言ってお互い困惑したこと、そういうやり取りのレクチャーも欲しかったことなど、ゼロから介護に飛び込まざるを得なかった家族に対しての不満もぶつけておいたら、それも、市内の全地域包括支援センターに対して、通達しますと約束してくれた。
その後、問題解決に向かうものもあったが、やはり、両親の認知機能は日に日に、目には見えないレベルだったり、いきなりだったり。
産まれて暫くしてからの記憶しかないが、あれだけ元気だった両親が、脳の病気を起点に、会話が成り立たなくなりながらも、1人きりで支えなきゃならない現実は、やはりツライものがある。
喜びも、悲しみも、まともに共有出来ないのだから。
明日になれば、無かった事になるのだから。
共有出来る兄弟は居ない。
近くに住んでいるはずの従姉妹も音信不通。
何のために私達は、この、従姉妹の家の近くに来たのだろう?
飲み水が私の体に合わないことも引っ越してきて初めてわかった。
私がここに居なければならない理由は何?
ここにいる必要って、ぶっちゃけ無いよね?
無理して頑張って動いてきた結果がコレだ。
本当に嫌になる。
私はこれからどうやって、生きていけばいいのだろう。
そう、遠くない未来に両親と別れることになる。
ひとり取り残される。
色々考えるが、暗闇しか見えないから、とりあえず蓋をしてしまおう。
日々の出来事を、ネタとして、楽しみとして昇華していけたら。
今はそれだけを考えながら、どうせやるなら、勉強しまくる時間として、認知症カフェを回りまくり、そのうち、認知症カフェ荒らしのように、誰かの記憶に留められたら、面白いかもしれない。
介護との両立は過酷ではある。
毎日、帰路では運転しながら眠気が襲い、家に近づくにつれ、地獄が待っている。
としか思えない自分もいる。
帰りたくないのに、帰らなければならない現実。
そんな毎日を送っている。
何か、意味わからんけど、思ったことをツラツラと。