2023年 5月10日&11日、館山市と南房総市に行ってきました。
この幸福な神社巡りを《安房国の式内社&忌部の神々を巡る》と題して、神社をご紹介しております。
今回は、千葉県内で最古の式内社である標記神社です。
安房国一之宮
安房神社
(あわ神社)
『延喜式』に記された社号
→安房坐神社(あわにいます神社)
写真は本宮の拝殿
◇鎮座地:千葉県館山市大神宮 589
◇最寄駅:JR内房線 館山駅~11km
◇バス便:安房神社前バス停~450m
JRバス関東 館山駅前→安房白浜行き
◇御朱印:あり
【当社の立地】
第1回=船越鉈切神社で述べたように、古来、この地域は大地震が頻発しました。その度に、海岸が隆起し後方へと押し上げられました。
「安房神社境内の裏手は吾谷山(あつちやま)と呼ばれる丘陵であり、東西及び南部の三方を急峻な海食崖に囲まれている。この崖の前面には海岸にむかって雛壇(ひなだん)状に段丘が形成されている。」
by館山市立博物館HP
当社は海岸沿いではありません。内陸部にあります。
境内は標高20mの場所ですが、各所で海岸(=岩場)の痕跡を見ることができます。
安房神社は
東国で最も美しい神社
の1つだと言えます。
【参道】
一之鳥居と二之鳥居は、同一直線上にあります。しかし、その先に本殿はありません。つまり、当社は古社に頻出する「参道の突き当りに本殿がない」パターンです。
本殿は東を向き、2つの鳥居は北を向きます。鳥居は何を見ているのでしょう。
鳥居の延長線上に東長田という集落があり、その近くの山に祭祀遺跡があります。安房の神を祀った人々が、この山の頂からはるか故郷を拝したのではないかと想像されます。
by『房総の古社』菱沼勇
◆一之鳥居
◆玉砂利
境内は、その片隅に至るまで玉砂利が敷き詰められています。
玉砂利参道の右手に広がる緑地は、伊勢・皇大神宮「神苑」を彷彿とさせます。
◆石段と二之鳥居
青カビが生えた石段の先に純白の二之鳥居が遠望できます。
この付近、右手には大きな「神池」が広がっています。
◆神池と吾谷山
吾谷山は秀麗な小山です。山中に祭祀遺跡はありませんが、神体山である、との説があります。
由緒・神代
◇起源伝承
当社の創始は、今から2670年以上前、神武天皇が即位した皇紀元年(西暦紀元前660年)と伝わります。
神武天皇の命令を受けた天富命は、肥沃な土地を求め、まず阿波国(徳島県)に上陸。そこに麻や穀(カジ=紙などの原料)を植え、開拓を進めました。
その後、天富命は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて海路、房総半島南端に上陸。ここにも麻や穀を植えました。
この時、天富命は上陸地である布良浜の男神山と女神山にご先祖=天太玉命と天比理刀咩命を祀りました。これが現在の安房神社の起源となります。
by当社由緒書
◎そもそも、安房に来たのはいつ頃
『古語拾遺』によれば、天冨命の来着は「神武天皇の命によって」とのこと。神武天皇は実在せず、伝説上の人物とされています。しかし、明治時代の碩学・那珂通世の精緻な研究があり、これによると神武在位年代の神武元年は西暦紀元年とほぼ同じなのだそうです。このことから、天冨命が安房に来たのは《紀元1世紀の前半頃》と思って良いようです。
by『房総の古社』
◆手水舎
過剰な彫刻など一切ありません。と言いたいところですが、1本の柱だけ「タイ焼き」と同じくらいの大きさの鯛の彫刻1点が施されています。
安房神社は
①本社=「上の宮」
②摂社=「下の宮」
とで構成されています。
①『上の宮』
拝殿・本殿・神饌所からなっています。
この社殿構成、先日、訪問した國學院大學神殿を思い出しました。
◆拝殿を遠望
◆拝殿
御祭神
日本産業総祖神
天太玉命
あめのふとたまのみこと
相殿神
天太玉命の后神
天比理刀咩命
あめのひりとめのみこと
忌部五部神
当社パンフレット『安房神社略記』には、祭神としての記載がありません。しかし、当社HPでは『上の宮』の相殿神とされています。
①櫛明玉命
くしあかるたまのみこと
出雲忌部の祖=装飾・美術の神
→玉を具納
②天日鷲命
あめのひわしのみこと
阿波忌部の祖=紡績・製紙の神
→麻や木綿(ゆう)を貢納
③彦狭知命
ひこさしりのみこと
紀伊忌部の祖=林業・建築業・武器製造の神
→宮殿用木材を貢納
④手置帆負命
たおきほおいのみこと
讃岐忌部の祖=林業・建築業・武器製造の神
→竹や盾を納めた
⑤天目一箇命
あめのまひとつのみこと
筑紫忌部&伊勢忌部の祖=金属鉱業の神
→鍛冶に携わった
※忌部五部神とは、神であり職能集団でもあります。
早くから地方移住を命じられ、各地の開拓&産業振興に携わりました。
◆本殿
神明造で屋根は銅板葺き
午前と午後で太陽の位置が変わるのにもかかわらず、ご本殿をこの位置から撮影すると、時間に関係なく《本殿そのものが光を放っている》かのような写真になります。
天冨命は、自身の家族も連れてきました。そして、当社が創建された際、娘の飯長姫を斎王としました。
by『房総の古社』
由緒・奈良時代
◇遷座
養老元年(717年)、男神山と女神山から現在地(=吾谷山の麓)に遷座しました。
これに伴い、天富命と天忍日命を奉斎する「下の宮」社殿も併せて造営されました。
by『安房忌部家系之図』
(当社パンフレット)
◆神饌所
神様にお供えする神饌(食事)を用意するための建物。現在は1月14日「置炭神事」の祭場として利用されています。屋根付きの渡り廊下で本殿とつながっています。
御食都神みけつかみ
◇景行天皇の東国巡幸に関わる逸話
当地に来た景行天皇。行宮から狩猟に赴いたその留守中、磐鹿六雁(いわかむつかり)が食膳を調えました。狩りから戻った天皇はその料理を一目見て感激。安房大神を招請して共に食事をとられました。
これは、天皇が安房大神を御食神として考えた、と想像することができます。
なぜなら、古来、神嘗祭などの際、天皇は御食の神を招いて共に新稲の飯を食べていたからです。
ちなみに、御食神つながりを1つ
天照大神の御食神である豊受大御神が伊勢神宮「外宮」に祀られているのは周知のこと。安房大神=天太玉命は、その外宮・正殿において相殿神として祀られています。
次は、「下の宮」に向かいます。
②『下の宮』
◆拝殿
御祭神
房総開拓の神・天太玉命の孫神
天冨命
あめのとみのみこと
日本武道祖神・天太玉命の弟神
天忍日命
あめのおしひのみこと
◆幣殿と本殿
天冨命の一行は、布良崎に上陸したのち、北方に連なる丘陵の尾根づたいに歩き、当社付近に居を定めた、と伝わります。さらに、一部のものは東に進み今の下立松原神社近くで、魚介採取と農耕に従事しました。また、別の一族は北に進んでいます。
by『房総の古社』
◆本殿
【境内】
まずは、境内末社から
海に関りがある神社が2社祀られています。
◆厳島社
「上の宮」の拝殿前に横たわる巨大な海食岸をくり抜いて創建された社殿です。
海食岸があるということは、昔の海岸がここまで押し上げられてきたということ。
御祭神
市杵島姫命
海上交通を守護される海の神
◆磐座
当社に社殿ができる前は、ここを磐座として原始的な祭祀が行われていたと考えられています。神さまは、吾谷山の頂から招きました。
◆琴平社
讃岐・金刀比羅宮の御分霊をお祀りする末社です。
元は、安房神社の近隣地域に祀られていました。それを氏子主導で当地へと遷しました。
御祭神
大物主命
航海上交通・航海安全の神
◆慰霊碑
境内の片隅は、木々に囲まれた静寂な場所。
ここに、旧海軍関連の慰霊碑があります。1つは、館山海軍砲術学校の学生。もう1つは横須賀海軍陸戦隊の兵士をそれぞれ慰霊します。
ちなみに、境内全域に桜(=ソメイヨシノ)が229本植えられています。これは砲術学校の戦没者229名に一致させています。
◆吾谷山の山肌
◆御神水
窟内に3柱の神様が祀られています。
コロナ以前は、社務所でお祓いを受けなければ「お水取り」できませんでした。しかし、今は、その注意書きがなくなっていました。
御祭神
◇安房大神(繁栄の神)
あわのおおかみ
◇水波能売命(水神)
みずはのめのかみ
◇吾谷山御神霊(神体山=水源地)
あつちのやまのおみたま
◆お仮屋
当社例祭に出祭して来る近郷神社の神輿を納めるための建屋です。現在、神輿の入祭は3年おきに行なわれております。
各部屋に神社名が記されています。中央に「伊勢神宮遥拝所」と犬石神社。その左右に4社づつ。
◇左側:白浜神社、下立松原神社、日吉神社、八坂神社
◇右側:熊野神社、相濱神社、布良崎神社、洲の宮神社
◆御神木
樹齢500年超とみられる槙。崖の下は神池です。
◆社務所
大正時代に建てられた木造平屋の建物。良い雰囲気の社務所です。
【附】
東国の主要神社を眺める
◇東京(武蔵国):総社・大国魂神社
→大国主命=国津神系(=出雲系)
◇埼玉(武蔵国):一宮・氷川神社
→素戔嗚命=国津神系(=出雲系)
◇千葉(安房国):一宮・安房神社
→天太玉命=天津神系(=忌部氏)
◇千葉(上総国):一宮・玉前神社
→玉依姫命=国津神系(=海神系)
◇千葉(下総国):一宮・香取神宮
→経津主命=天津神系(中臣香取氏)
◇茨城(常陸国):一宮・鹿島神宮
→武甕槌命=天津神系(中臣氏)
興味深い分布でした。都から見て「地の果て」である武蔵は国津神系。常陸・下総など、対蝦夷の最前線地域は天津神系。常陸は、中臣の故郷とも言われています。下総=香取神宮は元々、物部氏系の斎主神でしたが、藤原氏の台頭により祭神が経津主命に変わった、と三諸は考えます。また、下総では香取神宮より古いとも言われる側高神社の祭神が秘密となっていますが、おそらく忌部氏系の天日鷲神です。安房は、開拓の関係で忌部氏系。上総は外房、すなわち海の彼方から神がやって来たため海神系です。
【縄文遺跡など】
◆洞窟遺跡
昭和7年の井戸工事の際、地表下1mのところで洞窟が発見されました。全長約11m、高さ2m、幅1.5mです。洞窟の種類は、海の侵食によってできた海食洞穴。発掘調査により貝輪193個と人骨22体などが発見され、古代人の墓所と判明しました。
出土した人骨22体のうち、15体に抜歯の痕が認められました。抜歯は、健康な歯を故意に抜く風習で、未開社会で一般的に認められます。
日本では縄文時代中期から見られ、初めは上顎第二門歯の片側を抜く例が多く、後期には両側を抜くようになります。縄文時代晩期には、犬歯を抜く例を含め、いろいろなパターンが全国的にみられます。
抜歯は弥生時代にも存続したとされ、その根拠となるのが、この洞窟遺跡の人骨です。しかし人骨に伴って出土した土器は、弥生土器ではなく、古墳時代の土師器と認められるものです。他に明確に弥生土器と分かるものがあったかどうかは、報告書でははっきりしないため、今後遺跡の時期については、再検討が必要とされています。
※この洞窟は調査後に再び埋められたため、見学することができません。
by館山市役所HP
◆忌部塚
当社の洞窟遺跡から発見された人骨の一部を近くの宮ノ谷に埋葬しました。そして、これを《忌部一族の御霊・人骨》として位置づけた上で忌部塚としました。
7月10日には「報恩崇祖の誠」を捧げる忌部塚祭が行われています。
【参考】
筆者過去記事リンク
2019年に訪れた際、《聖なる植物=麻》を絡めて考察する記事を書きました。
よろしければ、ご覧ください。
【御朱印】
初穂料:500円
【参拝ルート】
2023年 5月10日
《安房国の式内社
&忌部の神々を巡る》
START=JR津田沼駅7:26→総武線&内房線→9:35館山~館山駅前バス停9:45→JRバス・平砂浦海岸行→10:03安房浜田バス停~20m~①船越鉈切神社 ②海南刀切神社~45m~安房浜田バス停11:09→JRバス・相の浜行→11:18洲崎神社前バス停~160m~③洲崎神社~洲崎神社前バス停12:18→JRバス・相の浜行→12:35相の浜バス停~乗り換え・20m~相の浜バス停12:37→JRバス・安房白浜行→12:45白浜中学校バス停~450m~④下立松原神社(滝口)&境内社(式内社:⑤天神社)~白浜中学校バス停13:56→JRバス・館山駅前行→14:04布良崎神社バス停~30m~⑥布良崎神社~布良崎神社バス停14:49→JRバス・館山駅前行→14:52 安房神社前バス停~450m~⑦安房神社&忌部塚 ~安房神社前バス停16:22→JRバス・館山駅前行→16:45館山駅前バス停~190m~ホテル・マイグラント=GOAL
※翌5/11の神社巡り
①下立松原神社(牧田)、②高家神社、③莫越山神社(沓見)、④莫越山神社(宮下) 以上
【編集後記】
◆静寂で清浄
安房神社は房総半島の南端。つまり三方(東西南)が海という立地です。館山市は筆者が住む船橋市からかなり遠く、なかなか出かける機会がありません。今回ようやく3回目の参拝となりましたが、いつ来ても心身が浄化される。そういう神社です。また、神体山や社殿を含め境内すべてが美しく、静寂・清浄な神社です。(了)