2018年 9月、鹿島神宮に行きました。雨が降り続いた直後の晴天。森が輝いていました。
常陸國・一之宮
鹿島神宮
本殿が北向き。これは、有名な話。さらに、御祭神は本殿内陣で東向きに鎮座。つまり、武甕槌大神は横向きです。
よって、参拝者は拝殿で手を合わせても、実は祭神と正対してないのです。
◆御手洗池
~静寂の極み。
【社殿配置の妙】
鹿島神宮は社殿配置が一般の神社と異なります。
①参道と社殿の位置関係
《参道 右手》に拝殿&本殿
~大鳥居&楼門をくぐって直進。社殿は、参道突き当たりにありません。古い神社は、参道を直進し正面に拝殿、といった形を避けるケースが散見されます。例えば、香取神宮。旧参道を直角に左折して、楼門~拝殿です。伊勢神宮も参道をぐるぐる回って御正殿に着きます。
②社殿の向き
拝殿・本殿が《北向き》
~社殿が北向きとなる理由は、常陸國が蝦夷の征討基地となっていたためです。常陸國の象徴である鹿島神宮を蝦夷地の方(=北)に向かせたと考えられています。また、武甕槌大神を征討軍の軍神としていました。
【表参道】
◆社号標と大鳥居
~東日本大震災で御影石の大鳥居が倒壊しました。すぐさま、神域の杜から樹齢500~600年の杉を伐採~用材にして再建しました。高さ=10.2m、幅=14.6mの威容を誇ります。
◇鎮座地:茨城県鹿嶋市宮中2306
◇最寄り駅:JR鹿島線・鹿島神宮駅
◇御祭神:武甕槌大神
◇御朱印:あり
◇社格:延喜式:名神大社、旧社格:官幣大社、神階:正一位勲一等、常陸國一之宮
◆境内図
→大鳥居付近。境内案内ボランティアの受付所で無料配布しています。
◆水盤
◆楼門
~造営当初は、檜皮葺き(ひわだぶき)。塗りは施さず素木の楼門でした。今は銅板葺き&朱塗りです。1階の両サイドには随身像、その裏側には謎の切り株が安置されています。
◆二郎杉
~楼門と拝殿のほぼ中間地点にそびえています。境内で2番目に大きな杉なので、二郎杉と呼ばれています。高さ40m、樹齢は推定700年。
【社殿】
~創建は皇紀元年。2600年ほど前と伝わります。鹿島は、都から見ると国の東端(=太陽が生まれる国)、海に臨む(→神は海からやって来る)ことから、古来より神聖な地とされてきました。
◆拝殿正面
~拝殿は、徳川秀忠が1619年に奉納しました。拝殿正面の素木部分は地味で良いです。
◆拝殿斜めから
~拝殿は、向背がつけられた入母屋造り。屋根は檜皮葺きです。
◆拝殿・幣殿・本殿
~正面から見た感じは地味めで良いのですが、横に回ると、様相が一変します。とくに本殿は、装飾はじめ徳川好みの絢爛豪華な仕様です。
◆本殿
~本殿は、裏のスペースも神聖です。まず、樹齢1300年超と推定される、ご神木。その背後に、《鏡石》 という名の磐座があります。本殿ー神木ー磐座は一直線につながっています。
【謎の神座】 .
◆本殿は北向きだが
御祭神は本殿内で東向き
~本殿の神座位置をご覧ください。武甕槌大神は正面を向いておらず、横を向いています。したがって、参拝者は祭神と正対できません。
◆鹿島と出雲
・関係①「古事記」において、鹿島・タケミカヅチは出雲・オオクニヌシに国譲りを迫りました。
・関係②日本列島を東西に切っていくと、最も長い線になるのが鹿島と出雲を結ぶ線です。
・関係③祭神の位置。鹿島神宮だけでなく出雲大社もまた、内陣の奥で横を向いています。
→出雲大社・祭神が西を向く理由は、拙記事「常陸国 出雲大社」に。
◆東を向く理由
~これは、想像にすぎないのですが、《自らが天下った地を見ている》のかもしれません。神はたいてい海の彼方からやって来るものです。鹿島大神もまた、鹿島灘の浜、東一之鳥居の近くに「降臨の地」があります。
次は、東神門跡を抜けて、奥参道に入ります。
【奥参道】
大鳥居から東神門跡までは石畳でした。その先、奥参道は・・・。
◆土の参道
~奥参道は、清澄な空気に包まれた《森の参道》です。ここでは、流鏑馬が行われるため、『奥馬場』とも呼ばれます。奥宮まで約300mの道程で、杉巨木が連なります。
◆鹿苑
~奥参道を進むと、左手に鹿苑が現れます。奈良時代、当宮の鹿は武甕槌大神の御分霊を背に乗せ、春日大社まで飛びました。現在の鹿は、鹿島神宮→春日大社→鹿島神宮、と、帰ってきた子孫たちです。
鹿苑から奥参道に戻り、直進します。やがて、参道右手に『奥宮』が見えてきます。
→こちらも 《右手に》 です。社殿は、参道の突き当りではありません。
【奥宮】
御祭神:武甕槌大神の荒魂
~徳川家康が「関ケ原」での戦勝のお礼に本殿として奉納しました。その後、息子の秀忠が新本殿を造営することになり、家康の旧本殿は、《奥宮》として現在地に遷座しました。遷座は、社殿を解体~再建せず、元の場所から曳いてきました。
社殿から放たれるオーラというか、辺り一帯に聖なる気配を感じました。これは、霊感が特別強いわけでもない筆者であっても、肌で感じ取ることができました。
◆檜皮葺 (ひわだぶき)
~苔むす檜皮葺きの重厚な屋根です。屋根を仰ぎ見ても、そこに神聖な気配を感じました。
奥宮の次は、更に奥へ。
要石と御手洗池に向かいます。
◆参道の分岐点
~奥宮の少し先に参道の分岐点があります。
右=「要石」への緩やかな上り坂。
左=「御手洗池」への下り坂。
【聖なる池&磐座(いわくら)】
①御手洗池(みたらしいけ)
~雨が何日か降り続いた後の快晴でした。しっとりとした神池一帯は、まるで東山魁夷の世界でした。いつもでしたら人影は邪魔なのですが、御手洗池には効果的、と判断しました。
透明度がハンパないです。この池では、今でも「大寒禊」が行われます。池に入ると、大人でも子供でも水面が胸の高さを越えない、と言われています。(→池底に傾斜があるようです)
◆お水取り
御手洗池の背後、崖下に湧き水ポイントがあって、「お水取り」できます。この池が旱魃でも涸れないのは、湧き水のおかげです。豊富な水量がとめどなく湧き出ています。
御手洗池から「分岐」まで戻って、要石に向かいます。
◆「要石」への道
奥参道の三分の一程度の道幅です。参道っぽくない道は、森林の中を逍遥する感じです。
②要石(かなめいし)
鳥居が建てられ、玉垣で囲った神域に鎮座しています。要石は、直径20cmほどの霊石です。砂地から顔をのぞかせている部分は、氷山の一角というイメージになります。
◆鹿島と香取の要石
香取神宮の《要石》との関係。
石の形状は、鹿島が凹で香取が凸。2つの霊石は地中で1つに繋がっていると言われています。つまり、巨大な石である、と。そして、この巨大な石とは鯰(ナマズ)なんだと。
◆比喩としてのナマズ
①地震の制御
鹿島と香取がナマズを抑えている(=地震が起きるのを防いでいる。)
これが一般的な解釈です。
②国津神を抑える
鯰とは、国津神のこと。鹿島と香取が国津神を抑えている、という解釈。
=「国譲り」を表している。
◆磐座信仰
神聖な石は、《要石》だけではありません。
本殿裏手にも直径80cmほどの《鏡石》なる霊石が祀られています。このように、聖なる石を祀るところに、古い神社ならではの磐座信仰が垣間見えます。
次は、《静寂と清浄》をヒシヒシと感じる「祖霊社」に向かいます。
◆祖霊社への道
~「分岐」に戻る途中の十字路に「大鯰の碑」があります。そこを左折。奥参道と平行する森の小径に入ります。ほどなく、十字路があるので右折。直進し、奥参道を横断してさらに直進すると、左手に祖霊社です。
【祖霊社】
◆全貌
鹿島神宮の中で、最も静謐な場所の1つであり、落ち着ける場所です。
左に映る小社は権殿です。
※秋分の日の大祭前夜午後6時より招魂の儀、遷霊の儀等の祭典が執り行われます。前年の秋に権殿に合祀された御霊は本殿へ、新たに加わる御霊は権殿へ奉斎致します。
by鹿島神宮HP
◆拝殿
~想像を絶する清浄な感じ。言葉にするのは難しいです。拝殿の裏手に本殿があります。
◆本殿
~祖霊社は、氏子中の戦没者・祖霊をお祀りしています。本殿は神明造で、屋根は檜皮葺き。鰹木は奇数で、千木は外削ぎでした。この様式は、至極、腑に落ちます。
【他の境内社】
~たくさんあるので、いくつかをPick Up します。
◆高房社
~武甕槌大神の「葦原中国」平定に貢献した建葉槌神が御祭神です。
まず当社を参拝してから本宮を参拝する。そういう習わしがあります。社を護っているかのような、背後の一本杉。
◆稲荷社
~狛犬も神楽殿もない鹿島神宮ですが、稲荷社は祀られていました。大鳥居と楼門の中間、参道右手に鎮座しています。稲荷社っぽくない美しさが驚きでした。御祭神は保食神です。
◆銚場の稲荷
銚場の稲荷様と呼ばれ、霊験あらたかで多くの人々の信仰を集めた。銚場とは、直会(なおらい)場のこと。江戸時代以前、この広場で祭典の後に直会を行っていた。by案内板
◆大国社
~御祭神・大国主命は、武甕槌大神が「国譲り」を迫った相手です。大鳥居の位置からもっとも遠い東の奥地に鎮座していました。もしかしたら、鬼門の位置に当たるのかもしれません。
ラストは、電動自転車を駆って、「西の一之鳥居」と「跡宮」です。
~「西の一の鳥居」は、鹿島神宮から約2km。途中「鎌足神社」に立ち寄りました。 ※鎌足神社は、大職冠・藤原鎌足を祀っています。
【西の一之鳥居】
この水上鳥居の建つ、霞ヶ浦(=北浦)の大船津は、かつて水運の要衝でした。と、同時に、鹿島神宮・表参道につながる玄関口でした。現在の鳥居は、2013年に再建。水底からの高さ18.5m、幅22.5m、です。平安時代には、既に水中に建っていたことが確認されています。
西の一之鳥居から、跡宮に向かいます。
~「跡宮」までの距離は、2.4kmで、途中、境外末社「海辺社」にも立ち寄りました。
【跡宮】あとのみや
別名:荒祭宮
御祭神:武甕槌大神の荒魂
~「鹿島神宮伝記」、「鹿島ものいみ由来」などによると、跡宮は 鹿島大神が高天原から降臨した場所 と、伝わっています。諸説あり。
◆二之鳥居
~一之鳥居をくぐって、直進。ほどなく、右手に鳥居&社殿が現れます。これは、大鳥居と楼門をくぐった先、右手に鳥居&社殿が鎮座する、鹿島神宮のそれとまったく同じ形式です。
◆物忌(ものいみ)
~跡宮の近くに、物忌 と呼ばれる女性の住む館がありました。物忌は、神職の身内から選ばれた童女で、 生涯独身のまま、神さまに仕えました。鹿島神宮への出勤は、人目に触れぬよう輿に乗って往復しました。物忌は明治時代の中頃まで存在し、90歳まで務められた方もいらっしゃいます。
◆社殿
~奈良時代、武甕槌大神の御分霊が平城京・春日大社へ「鹿島立ち」しました。その際、この神社から出発した、との言い伝えがあります。
また、鹿島神宮の祭礼の際、祭りの前日に跡宮を祀ること、とされています。
【国家からの特別扱い】
鹿島神宮は、奈良・律令国家から特別扱いされていました。
① 神宮の称号
→『延喜式』において、神宮称号を受けているのは、伊勢、香取、鹿島の3社のみです。
② 神階
→鹿島神宮は、正一位勲一等の神階を奉叙しています。この最高位階は、香取、鹿島、上加茂、下鴨の4社のみが奉叙しています。 ③・④は後述。 (注)神階は、『六国史』終了時点(=887年)
③鹿島香取使
~毎年2月に朝廷から勅使が派遣されました。勅使は、伊勢をはじめ近畿地方の神社では、珍しくありません。しかし、地方の神社に天皇からの勅使。これは、破格の扱いでした。
④神郡(しんぐん/かみのこおり)
~鹿島神宮は、朝廷から神郡という特別な領地を与えられていました。神郡は、伊勢神宮の度会郡はじめ、全国で8郡ありました。東国には、3郡。鹿島神宮のほかに、香取神宮と安房神社が神郡を与えられていました。
※このように、鹿島神宮とは、民衆が五穀豊穣や病気治癒などを祈る神社とは、明らかに性格が異なります。奈良時代から、既に民のための神社ではなく、国のための神社でした。国家と鹿島神宮の関係は、中世で途絶えましたが、明治時代に復活。戦後、形を少し変えて今に至っています。
【御朱印】
~参集殿・祈祷殿でいただけます。鹿島神宮は、平日でも参拝者が多いので、先にこちらへ御朱印帳を預け、帰りに拝受するのが合理的です。
【参拝ルート】2018年 9月28日
START=JR鹿島線「鹿島神宮駅」~徒歩500m~ ①『鹿島神宮』 ~②レンタサイクル調達→③「龗神社」→④『鎌足神社』→ ⑤『西の一之鳥居』 →⑥『海辺社』→ ⑦『跡宮』 →⑧『伊勢神社』→⑨『月讀神社』→⑩レンタサイクル返却~徒歩~「鹿島神宮駅」=GOAL
【編集後記】
◆高天原から天下る
高天原の神集い(かむつどい)によって、カシマノアメノ大神(=武甕槌大神)の天下りが決定した、と『常陸国風土記』に書かれています。これは、タダゴトではありません。例えば、ニギハヤヒは 《天から》 下ったのであって、高天原からではありません。
《高天原から》降臨したのは、『日向国風土記』の天孫・ニニギノミコト。そして、『常陸国風土記』のタケミカヅチ。この2柱だけです。
他の神々の天下りには、「高天原から」という文言が一切使われておりません。
◆国譲り神話の再現
幕末、徳川慶喜が「大政奉還」を申し出ました。無血開城された江戸城において、西郷隆盛らは、鹿島・香取の神座を設けて軍神祭を行いました。これは、幕府から官軍への政権交代、すなわち、オオクニヌシの「国譲り」を再現したものでした。 (了)