2023年 3月31日、《ブロ友》の方々とお会いするため、標記神社を訪問しました。

2018年5月以来の参拝でした。

※本記事は、5年前のものをベースに写真と文章を大幅差し替えしました。

 

 敷島神社 

《桜が似合う美しい神社》

 境内のそこかしこに、桜を見ることができます。

 古代、桜の開花は山の神が里へと降臨する際の告知でした。古代人は、里を訪れた神を斎き祭り、神と酒食をともにして、その年の豊饒を祈りました。

◇鎮座地:埼玉県志木市本町2-9

◇最寄駅:東武東上線・志木駅~1.8km

◇バス便:国際興業バス・志木駅東口→[志01]浦和駅西口行→富士道バス停~300m

◇主祭神:木花開耶媛命

◇相殿神:倉稲魂大神、罔象女大神

◇御朱印:あり

 

 

 

◆大鳥居

 真新しい社号額が掲げられていました。2018年の参拝時は額束のみで、神額はありませんでした。神社の整備とは、こうして少しづつ進んでいくものなのですね。

 

 

◆手水舎

 

水に対する考え方は

神社の核心の1つです。

 

 

定点観測① 水盤

◆水盤 2018

この写真は5年前、すなわちコロナ以前に撮影したものです。

 

 

◆水盤 2023

一方、こちらは今回の撮影。

すなわちコロナ以降の水盤です。

何ら変わっておりません

素晴らしいです!

 

 多くの神社が「コロナ」以前と以降で、水の供給方法を変更しました。水を涸らせた神社も少なくありません。そんな中、当社の手水舎にはふんだんな水がありました。しかも、《柄杓までもが健在》で嬉しくなりました。

 

 以前と異なったのは、アルコール液の入ったボトルが置かれていたこと。

=重要です。

 これさえあれば、安心して柄杓を使用できます。

 

 

清らかな水で禊させてもらえたので

なんのウシロメタサもなく

神様と向き合うことができました。

 

 

【社殿】

桜のウロ(裂け目)

 以前は、神社名が書かれた御幣が置かれていました。しかし今回、そこには小さな社殿がありました。

 

 祭祀の歴史は「神籬(ひもろぎ)から社殿へ」と進みました。当社・桜の古木にその縮図を見た思いです。

 

 

◆拝殿

 当社は、木花開耶姫命を「水の神」として祀っております。これは、富士山本宮浅間大社と同じスタンスです。

 

 

由緒

 明治41年、田子山富士=浅間神社の敷地に村山稲荷神社、星野稲荷神社、そして水神社を合祀して敷島神社が誕生しました。

つまり、富士塚が先で当社が後です。

 

 

 

 

 

◆本殿

 

 

 本殿の千木は「外削」

これは男神を祀る仕様です。

 

 この件については、富士山本宮浅間大社(=木花開耶姫命)も同様でした。

 

 

 

浅間(あさま)の神

 富士山の神とは、元々「浅間の神」であり、男神だった。

 江戸時代、浅間の神を斎(いつき)祀っていた有能な巫女が亡くなり、その際、巫女を神格化。すなわち、斎主が神となり、木花開耶姫へと化身し、祭神となった。

と、私は理解しています。

 

 よって、現在の富士山本宮浅間大社が女神を祀っているにもかかわらず、千木を「男神仕様」にしている。その理由は、こういうことなんだろうと思います。

 

 おそらく、敷島神社の千木や鰹木は、富士山本宮浅間大社のこうした様式を踏襲したのでしょう。

 

 

 

【境内社】

◆稲荷神社

御祭神:倉稲魂命

 拝殿に向かって右サイドに鎮座。

 

檻のような覆い殿です。

湿気対策なのでしょうか。

 

◆千本鳥居

 ミニチュア・サイズです。

 

 

◆水神宮

御祭神:罔象女大神

 水を司る神です。

水は禊に使いますから、神さま自身の清らかさが大切です。

しかし、この神は伊弉冉尊の尿から生れました。

 ミツハノメは農業用水の神でもあり、龍神でもあります。

 

 

◆鷲宮神社

御祭神:天穂日命、武夷鳥命、大己貴命

 由緒は不明。北葛飾郡鷲宮町の鷲宮神社から勧請したとの説もあります。

 

 

 

◆護国神社

御祭神:西南戦争以降の地元英霊

 散華された英霊の社に、桜の花びらがやさしく降り積もっていました。

 

 

 

◆子安神社

御祭神:木花開耶姫命

社殿の中に陰陽石らしきものが2体。

子安神社なので、母子という意味でしょうか。

 

 

 

◆田子山富士(浅間神社)

 明治5年(1872年)の築造。老朽化がひどく危険だったため、長らく入山禁止でした。

 関係者のご努力で、2016年から再び登れるようになりました。

◇登山可能日時(原則)

 大安&友引の10:00~15:00

 

 

◆浅間下社

御祭神:木花開耶姫

山麓に鎮座します。

 

◆登山道

 岩と土の登山道は、道幅が狭い上にロープやチェーンなど掴まるものがないため、軽い緊張を強いられます。

 

◆浅間神社 奥宮

御祭神:木花開耶姫

山頂に鎮座します。天気が良ければ、霊峰富士を望めます。

 

 

◆石造物

 鼻が折れてしまった天狗像。

 山のあちこちに、多種多様な石造物があります。

◇登山感想

 塚の高さは9m。3階建住居が眼下となり、高所が苦手な筆者は足がすくみました。

 登山道は程よい整備にとどめていて、自然な山道を維持したいとする、意志や努力を感じます。

 

田子山富士については、別途記事にて詳しくご紹介しております。

良かったら、ご覧ください。

田子山富士-浅間神社-

 

 

 

【境内点描】

定点観測② ケヤキ古木

 こちらでもまた、祭祀史の縮図を見ることができました。

 

◆2018年 5月

 神社名が書かれた紙垂つきの注連縄が張られています。

 

 

◆2023年 3月

 ケヤキに寄り添う形で、小さな社殿が建てられていました。

 また、注連縄につけられた紙垂の形状が変わっていました。

 さらには、幹の周囲を廻れるように木道が整備されました。

 

◆欅古木の新社殿

千木は「外削」でも「内削」でもない「斜め削」。

鰹木は7本あり、男神仕様です。

納められているのは、敷島神社のお札。

 

 

◆仏教関連施設

 境内西側の一角は仏教関係の施設です。

 

 中央の石碑は「東雲不動尊」と刻まれています。調べたところ、近隣の老舗薬局の邸内に「東雲不動尊祠」があるとのこと。この石碑、薬局と関係あるかもしれません。

 

 

◎敷島神社の多様性

  当社の境内は

 東側に敷島神社

 中央の富士塚に富士講と修験道関係の石像群

 西側に仏教関連施設

 が分布します。

 

 当社はこのように、神道、修験道、仏教などの宗教とそれに関わる組織や事柄が共存する神社です。少々おおげさに言えば、敷島神社とは「なんでも受け入れる」日本人の宗教観を可視化した神社、と言えるかもしれません。

 

 

◎各社殿の鎮座方位

 ここでは、当社に鎮座する社殿の向きを一覧します。

◇南面

 敷島神社・拝殿と本殿、稲荷神社(境内社)、鷲宮神社(境内社)、護国神社(境内社)、山頂浅間社(田子山)、浅間下社(田子山)、琴比羅神社(田子山)、金山大権現(田子山)

 

◇北面

 水神宮(境内社)、子安神社(境内社)

 

◇西面

 松尾神社(田子山)、ご神木の社殿(境内社)

 

 北向きと西向きについて、理由や意味などを少考しました。

これは、たんにスペースの問題かと思われます。水神宮や子安神社は「南面社殿」より歴史が浅く、これらを建てるとき、南向きにするための空きスペースがなかったのだろうと思いました。西面社殿についても同様かと思われます。

 

 

 

桜の樹(田子山 南麓)

敷島の名を戴く神社なので、シメの写真は桜にします。

 

 

敷島神社

爽やかな雰囲気と富士山の明るさが溶け合う境内。

とても居心地の良い神社でした。

 

 

 

【御朱印】

臨時授与所にて拝受(2023年)

 

 

◆ 本務社=水宮神社にて拝受(2018年)

※御朱印について

 本務社のそれと、当社のそれでは、同じ角判でも字体が異なります。どちらが純正御朱印もしくは歴史的御朱印なのでしょう。

 

 

◆当社臨時授与所にて拝受(2018年)

木花開耶姫命

 

 

 

【参拝ルート】

以下は、2018年 5月のルートです。

START=東武東上線・みずほ台駅~徒歩15分~①水子貝塚公園《縄文・竪穴式住居》~徒歩3分~②水宮神社~徒歩1分~寺下団地バス停→志木駅東口行バス→ 冨士道バス停~徒歩5分~③敷島神社&田子山富士 ~徒歩5分~冨士道バス停→バス→志木駅=GOAL

 

 

 

【編集後記】

 本記事は、5年前のものをベースに写真と文章を大幅差し替えしました。

◆敷島の由来

 敷島とは、崇神天皇の宮が置かれた地「磯城(しき)」に由来する日本の古い国号の1つです。敷島神社の名称由来は、おそらくこれに因んでいるものと思われます。

 

◆志木の地名由来

 志木という地名も敷島由来かと、調べてみました。しかし、こちらは『和名抄』由来でした。明治の大合併の際、同書に見える「新座郡志木郷」から取ったとのこと。

 ちなみに、新座郡の旧称は新羅郡です。奈良時代、畿内はじめ各地にに居住する朝鮮人を武蔵国に移住させました。それが、当地です。

 

◆志木街道

 当社は志木街道から路地(=富士道)を入ると参道です。

 江戸時代は「奥州街道」と呼ばれ、北や西に向かう主要街道の宿場間を結んでいました。いわゆる脇往還と呼ばれた道で、日野と粕壁を繋ぎました。

 日光街道=粕壁(春日部)

 日光御成街道=岩槻

 中山道=大宮

 川越街道=志木

 甲州街道=日野

志木街道は、現在の武蔵野線や国道16号線(=環状道路)と似たコンセプトで、江戸時代に造られたのでした。便利な道だったことでしょう。(了)