Twitterに流れてくる
それぞれ父に向けた感謝の言葉たちを見て
思い出した。
うちは母子家庭なので
これといった父との楽しげな想い出というのは、そんなになく、、
小学1年生くらいに
家に遊びに来ていた友達と
珍しくゆっくりソファで寝転がっている父親と遊んでいて
「ママにカンチョウしておいで!」
と命を受け
キッチンにいる母のお尻めがけて
ニタニタと笑みを浮かべ
カンチョウしに行ったことくらいだろうか。
いや、もっと本当はあるはずなんだろうけど、、、
人間の脳ってやつは「忘却」機能に長けているから、
いや、私の海馬(記憶を司る脳の大脳の一部)はほどほどポンコツなので
楽しい想い出と嫌な想い出も忘却の空へと投げ捨てやすい構造なんだと思う。
ただ
今でも、カンチョウ(遊びの方ね)するのは好きだ。
階段を登って前に、二つに割れたお尻があると
ついつい五郎丸選手のように精神統一しながら
ニタニタ“して”しまう。
何度も、母からはガチで怒られたけども。
本気でやめてとこの世の終わりくらいに怒鳴られたこともしばしばあった。
でも
ついつい、やりたくなってしまう。
だってそこに二つに割れたお尻があるのだから。
それにきっと私のポンコツ海馬に
カンチョウ=楽しい想い出
と記憶されているからなのかもしれない。
私の父は今でも元気だし
舞台も観に来てくれるし
たまに一緒に食事したりもする
幼い頃から離れていたものの
大人になってからのほうが会う機会は増えた。
「血の繋がり」
とは不思議なもので
恐ろしいくらいに久しぶりに会っても何の気無しに、まー話せるものなんだなぁーと大学生の時に思ったものだ。
ただそれは私の中で「父」という存在意識とは
程遠いようにも感じた。
成長していくなかで
私の中に「父」という存在はなくなっていたからだ。
決してそれがマイナスの意味とかではなく
成長していく過程でそれが当たり前で、楽しく毎日過ごしていたから。
もちろん母はその分とても頑張ってくれていたし、
それを考えると父に対してムカついていた時代もあったけど
もう今はそんな感情すら忘却の彼方だ。
だって今とても幸せだから。
父がいなければ
カンチョウ好きな私はここに生きていないだろうし、そんなくだらない感性を持つ人で本当に良かったし、本当に本当に感謝している。
人それぞれの家庭環境や、関係性のなかで
目に見えるカタチはとても単純なのかもしれないけど
それぞれの色があって、おもしろいなぁと思う
「家族」っておもしろい物体だ。
そんなことを想ふ、今日は「父の日」
父として生きる、すべての父よ
毎日お仕事、
ご苦労様です。
体に気をつけてね。