昔の学校の校庭に鎮座していたというか、崇拝されるように置かれていたのが二宮金次郎像。

 

今では珍しいものになっていますが、まだ名残がある学校も探せばあるのかもしれません。

 

二宮金次郎、もとい、二宮尊徳氏は何をされた方なのか意外と知らない方も多いのではないでしょうか?

 

二宮尊徳氏の先天運を調べてみると、本命星(宿命)が六白金星、月命星(運命)が七赤金星、「天沢履」(虎の尾を踏む)で、運のランクは81位中10位で、普通運で極上の運を持っています。

 

二宮尊徳氏は今の神奈川県小田原市に百姓の長男として生まれました。

 

比較的裕福なお家だったのではないでしょうか。

 

先天運の運のランクの高さから見て、両親の愛情を受けながら育った様です。

 

が、当時住んでいた近くの川が何度も氾濫し、荒廃してしまった田畑の回復は叶わず、まずは父が眼病を患い、12歳の金次郎が変わって一生懸命働きますが亡くなってしまいます。

 

母は生まれたばかりの子供を人に預けながら働いて居るのを、14歳の金次郎が早起きして、近くの山で薪を取りにいき、夜は草鞋を作り、なんとか生計を助けて働くのです。

 

が、母も貧困の中亡くなってしまい、弟二人は母の実家に預け、自身は祖父の家で暮らすようになります。

 

そんな数々の試練の中でも金次郎は読書をしたり、身を粉にして働くのです。

 

が、祖父は夜読書する金次郎の灯り代が勿体ないとそれすらも与えません。

 

それでも諦めず、堤防にアブラナを植え、菜種油を作って、燈油としたのです。

 

稲の捨て苗や菜種を空き地に植えて収穫、毎年その収益を増やしていきます。

 

1804年、その祖父の家を出て、独立すべく活動していきます。

中宮に定座していたのは七赤金星の年。

 

自分の先天運の暗示そのものが出る年です、その運勢の勢いのまま、実家の再興に成功するのです。

 

自分の家だけではなく、近親者の家政再興も行い、奉公先では金融互助制度「五常請」(今でいう信用組合のはしり)を始め、小田原藩の家老の家の立て直しも依頼され、才覚を現していくのです。

 

優れた発想と行動力から、小田原藩主大久保忠真からも見込まれ、他の藩の身内の財政再建も任される程に・・・・。

 

 

それをきっかけに財政再建、農村再興の道へ邁進していくのです。

 

大久保忠真に頼まれた身内の財政再建は実に10年かかり、とても苦労したようですが、なんとか為し遂げ、その成功が近隣の注目を浴び、諸領諸村から仕法の要請が相次ぎ、復興事業、飢饉救済に乗り出していくわけです。

 

その功績から晩年には幕臣に取り立てられ、幕府領の再建に取りくみ、亡くなる70歳までに関わったのは600カ村にもなったと言います。

 

二宮尊徳氏の思想は「報徳」

 

これは、「万物には全て良い点(徳)があり、それを活用(報)する」というもので、藩主大久保忠真から、「汝(二宮尊徳)のやり方は、論語の以徳報徳(徳をもって徳に報いる)であるな」と言われたことからによると言います。

 

「報徳思想」や「報徳仕法」は、尊徳の子孫や弟子たちに受け継がれ、広まっていきました。

 

この思想は今回万札の肖像にもなった渋沢栄一氏、御木本幸吉氏、豊田佐吉氏など明治時代の経済人だけでなく、松下幸之助氏、稲盛和夫氏など昭和を代表する経営者達にも大きく影響を与えたと言います。

 

だからこその銅像が立つようになったようですが、実際あの姿で勉学に励んだかどうかははっきり目撃はされていないようです。

 

最近ではながらスマホなどが交通安全的に良くないと言う事で撤去されたり、違う姿形(座像)になったりしているのは時代の流れなのかなとは思いますが、彼の功績を改めて知る事で銅像に対する見方も変わるのではないでしょうか。

 

 

運が良くても、試練があったり、困難に見舞われる事もあります。

 

でも自分の運を信じて活動をしていって欲しいものだなとは思います。

 

毎回言いますが、運の良い人がずっと良い訳ではないし、運の悪い人がずっと悪い訳ではありません。

 

毎年の運気によって暗示も変わるし、運のランクも上下するのです。

 

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