標高197m
月山の高さです。
パッとどのくらいの高さか分かりにくいのですが、だいたい50階建てのビルと同じくらいの高さです。
そんな山頂から見ると当然
広瀬町だけでなく、安来の方まで見渡せます。
条件がよければ中海のほうまで見えるとのこと。
この日は微妙に見えませんでした。残念。
山頂には入り口付近に三ノ丸・二ノ丸、奥に本丸と3つの曲輪(くるわ)が作られ、敵の進入を防ぐための重要な機能を果たしていたとされています。
さっそくその本丸へ足を運んでみますと。
開けた場所があり、下から攻め込んでくる敵兵を迎え撃てる形になっています。
奥には尼子時代の守り神、“大国主命(オオクニヌシノミコト)”が祭られている勝日高守神社。
“古事記”を紐解くと、この神社の由来が見えてきます。
大国主命が国造りの途中、知恵者として手助けをしてくれていた“少彦名命(スクナヒコナノミコト)”が常世の国に帰り、大国主命が途方に暮れていると神が現れ、大国主命と神が対面する、その場所とされている、とのこと。
そのためか、事業成功の神社としても祭られています。
過去に雲南市創作市民演劇・歌劇『ふることぶみ~古事記~』で少彦名命がちょちょっとアドバイスをして去っていくシーンがありましたが、それがこの辺なのかと思うと感慨深いですね。
(https://ameblo.jp/unnan-engeki/entry-11786160877.html)
本丸は結構広く、歩いていると山中幸盛塔や
月山略史年表があります。
これをみると、築城は「保元・平治」の字が。
始まりは平安時代ですか・・・。
遥かなる時の彼方へ、意識が持っていかれそうになります。
そんな本丸を歩きながら、激しい戦いの後を想像していたんですが。
よく考えると本丸まで攻め込まれるような戦というのは、当時あんまりなかったんじゃないかと思い至ります。
豊臣の大坂城、浅井の小谷城など落城がドラマチックに取り上げられることはありますが、実際のところは城攻めは最悪の手とされていました。また、敵軍が攻め始める前に城主が降伏すれば全員許されることや、攻められて(力攻め・兵糧攻め・水攻めなど)勝ち目が無くなった場合でも降伏すれば城主の切腹で決着、家臣が許されるケースは多かった。
そのため本丸攻防戦になる前に終わってしまうケースがよくあったとされているのです。
ロマンのない話なのかもしれません。
ですがそれを考えると、“毛利元就”の“尼子義久”に対する処遇は当時異例であったことも分かってきます。
元就は抗戦していた義久の降伏を認め、さらに安芸円明寺に幽閉とはいえ生かしています。
“山中鹿介”“立原久綱”なども処刑はされませんでした。(所領は安堵されなかったっぽい)
当時どのような交渉があったかは想像するしかありませんが、もしかしたら尼子の結束固しとみた元就は、全員許すという逃げ道をつくり戦の決着を早めたかったのかもしれませんね。
帰ろうとするころには夕暮れの時間に。
美しい飯梨川(富田川)の風景を眺め、鹿介や源太兵衛がどのような想いでこの地を離れたのか。
落日の尼子を感じながら月山富田城の回を締めたいと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
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その1https://ameblo.jp/unnan-engeki/entry-12440332301.html