4年前のあの日、津波に襲われ孤立した避難所で一夜を明かしたのは家族で私だけでした。
夫と子供たちがどんな思いで私の身を案じていたか、家族の視点で書いて見ます。
人は、「あれだけの地震が来たのにどうしてすぐに逃げなかたの」と言う。
が、古くから人が住む漁師町、誰も慌てていない様子を見て、私は安心していた、
越してきて2年足らずの新参者が慌てても仕方ない、ご近所さんの様子を見てからにしよう、
この時、余震が続いていたので取りあえず外に出た。
車のカーラジオを聞いていた次男から電話が入った。
「お母さん、3メートル以上の津波がくるらしいよ」
それからまたすぐに 「お母さん、6メートルだってよ」
「三陸には10メートル越えた津波がもう来てるらしいよ」
次から次に情報を伝えたてくれたのに、その時の私は何メートルと言われても
数字として頭に入れただけで、10メートルの津波がイメージ出来なかった。
(思考停止の癖がながいことついていたのか)
今になって思えば、この時携帯電話だけは持って外に出たのだから、ワンセグでニュースを見れば良かったんだ。
県外に住む長男からも電話が入った。。
「今から避難するけど貴重品だけ持って出た方がいいかなぁ」と聞いた私に
「そうだね」と言ってしまったことを、彼は私が生還するまで、ずっと悔やんだ。
地震発生から40分、やっとお向かいさんが車で避難するようなので義母をのせて貰えるようお願いした。
そして私は自転車で指定避難所に向かう。津波到来まで20分。
公民館を経て中学校に到着してもまだ津波が来ると言う緊迫感がない私。
階段に向かうと大勢の人で混雑していた。やっとこれは大変なことが起こるのかも、と。
階段を上り数分後、2階に到達した時に、下の階から大声が
「早く上に上がれ~。急いで急いで、もうそこまで来てる、船が見えてる」
えっ、船が見えてる、って、何、どぉゆうこと?
この言葉を私は忘れることが出来ない、衝撃的な言葉だった。
半信半疑で外を見たら…
家や瓦礫や車や船が…
人間て、想像を超えた出来事に遭遇すると感情がついていけない、正常な反応をしないのだ。
私の知人はこの時、大人皆が窓からこの光景を見て絶句していた時、小学校低学年の孫を
「見てごらん」と言って抱き上げたことを、今でも悔やんでいる。
そして、この光景を絶句して見ていたひとりにご近所のご婦人が…
声をかけたら、ただただ「お父さんが、お父さんが」って泣き崩れるだけで
一緒に避難して来たのに、孫と一緒に忘れ物を取りに帰ったと…
こうして長い長い、3月11日の夜を街の人々と共に明かした。
私は、自分以外の家族は安全な場所に居ることが分かっていたので、この日の寒さが辛かっただけで
心配や不安はなかった。(ローンの残る家は間違いなく流されたが)
けど、家族の安否が分からず不安の中、あの夜を過ごした方々が沢山いた。
黙って長い夜を過ごし、朝が来るのをどんな気持ちで待っていたかと、
後から分かった、明るくなるのも待ちきれず、我が子を探しに飛び出して行った親がいたことを、
水も引かない瓦礫だらけの街に、
私の家族は、中学校に避難したと言う言葉を最後に連絡がつかなくなった私を案じていた。
長男は「貴重品は持っていけ」と言った為に、私が引き返したのではないかと、悔やんだ。
娘は看護師だったので、母を案じていても多くの患者さんに対応しなければならない、何もできない。
夫と次男が動いた。行けるところまで行ってみた。
が、浜街道途中で景色が急変した。目の前に見た事もない光景が、瓦礫が行く手を遮り、先に進めない。
夫はこの時
「無事だと聞いていても、さすがにこの光景の先に人が生きていられるものなのか」と思った。
自衛隊だけでなく民間の機材ををフル稼働させて夜を徹して道路を確保していた様子をこの夜、夫は見た。
これ以上、今は行けないなら、次に出来る事を考えた。
夫は、私の身体は薬が切れると動けなくなるのを知っていたので、病院に走った。
時間外だが警備員さんが動いてくれた、お医者さん、薬剤師さん、皆さん病気の事を知っていて、
お蔭で私は震災翌日から薬を手にすることが出来た。
3月12日、夕方、日が暮れる頃になってやっと私は家族の待つ場所に帰れた。
消防車に乗って帰って来た。
避難場所には夫と次男が私の姿を見つけると駆け寄って来た。
あんな嬉しそうな夫と息子の顔を見たの初めてかなぁ(笑)
息子から長男と嫁さんに電話を入れると、歓声が聞こえて来た。
夫が「お前なぁ、どんなに心配したか、こっちの気持ちも知らないで、のんびりしたもんだなぁ」って
スイマセン、
無事だと分かっていても顔見るまではこんなに心配なんですよね。