スッキリ解決!英語&文化のコミュニケーション・セミナー
「2010年7月23日に発生したスイスの「氷河特急」脱線事故について、現在、地元警察や連邦政府の鉄道・船舶事故調査委員会は、現場検証を行うなど慎重に事故原因の解明を進めているという。
しかし、なんと、事故から2日後の7月25日には運転を再開した。
日本では「事故原因がはっきりするまでは、運転を再開することはない」ということが常識で、あの2005年4月に発生したJR西日本福知山線の脱線転覆事故は全線運転再開まで55日かかっている」


これが最近のテレビのニュース番組の共通の受け止め方のようですね。


読売新聞によると、



「運行再開について、交通評論家の佐藤信之・亜細亜大講師(交通政策論)は、「原因不明のまま運行を再開することは考えられず、原因を把握しているのであれば公表すべき。日本とは鉄道事故に対する受け止め方の違いを感じる」と指摘。鉄道評論家の川島令三さんは「事故車両はすぐに撤去されており、入念な現場検証が行われたのだろうか」と疑問を投げかけた上で、「早い段階での再開は少し乱暴だと感じる」と語った。首都圏の大手鉄道会社幹部は「事故原因もある程度、確認できているのではないか。そうでなければ、とても運行再開はできない」としている。」


また、別のブロガーの意見 もほぼ同じで、


「第二の驚きは、その事故の原因がはっきりしないままに、運行が再開された事だ。先ず日本では考えられまい。この国鉄当局の判断について、現地の反応がどうなのか詳らかにしないが、批判めいた論調がないとすれば、安全というものに対する感覚がずいぶん違うのみならず、少し狂っているのではないか、と思う。事故の明らかな原因が判明しない、知る限りの原因と思しきものは全てチェックして安全は確認した。よって運転を再開する。再度事故が起こったとしても、その事態を公表しての事だから、それでも列車に乗った旅客の自己責任だ、というのだろうか。・・・いずれ事故原因と思しきものが特定されよう。それまでの間運行を続けていても、氷河特急に事故は起こらないだろう。しかしこの瞬間、スイス国鉄は最も大きなものを喪ったと思う。」

さらに、スイス人とスイス社会の拝金主義についての指摘 も多いですね。DASH!

汗

『たとえば「スイスらしい・・・・・・」という冷めた受け止め方をしています。
そして、最初に思い出した言葉は、ヴェルビエに住んでいる米国人の言葉。

米国じゃ、笑顔は無料(Free)だけど、
スイスでは、金額の大きさ次第(Money)だから・・・・・・むかっ


三つ星ホテルに泊まって、大きな笑顔を迎えてくれるのは
それはお金をたくさん使っているからだけの話で、
一つ星ホテルだと、それはもうホスピタリティという言葉を
知っていますか、といいたくなるところも多いですし。


観光立国のモデル、永久中立の平和な世界、
少女ハイジのステキなアルプスの国・・・・・・
といったイメージを、スイスに対して持っている方も多いと思います。

それは、幻想、だと思いますね。
十分な装備をもった軍隊がありますし、
とても閉鎖的な、監視し合うような村社会が基本構造ですので。


これはこれで興味深いことではありますが、これをもう少しディープにとらえてみれないでしょうか。つまり、それほど拝金主義スイスの文化があるのなら、二日後に営業開始による利益と、スイス国鉄の失った風評損害とを比較するとどうなるのでしょうか。賠償責任は発生しているでしょうからその金額も考慮するべきですね。では、いくらなんでしょうか?目


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サンデル教授のハーバード大学白熱教室からすると、


フォード・ピント事件は1972年から世間の耳目を集めることとなった。ひとつの追突炎上事故の裁判において、ピントの構造上の欠陥が明らかとなったのだ。そこで1973年、アメリカ運輸省はフォード社に車両改修の提案をした。これに対しフォード社は「製品の欠陥は明らかだが、設計の改良や製品の改修に要するコストが多大なため、個別の事件について車両の欠陥を認めて賠償金を支払っていく方がリーズナブルである」という回答書を出した。企業倫理の欠如として世論の批判が集中し、フォード社の販売は落ち込み、懲罰的な賠償金を課せられた上、製品の改修も余儀なくされた。

フォード社のピント改修の費用便益分析
費用 1台当たり11ドル×1250万台≒1億3700万ドル
便益 死者180人×20万ドル+負傷者180人×67000ドル+自動車修理2000台×700ドル≒4950万ドル

これってベンサムの功利主義の話ですが、、「人命には数字にできない至高の価値がある」とするならば、もはや自動車産業はなりたちません。「どの程度の頻度で事故が発生するなら自動車メーカーが全車両を改修すべき欠陥だといえるのか」という「程度の問題」の線引きなのである。絶対に乗員が死なない自動車など、私たちは期待していない。それが非現実的であることを知っていて、それでも自動車の利便性は捨て難く、危険を承知で自動車を利用することに同意している。そこには暗黙の「人名の価値を含んだ費用便益計算」が存在する、というわけです。

1250万台に対して、「欠陥」に起因する死者180人、負傷者180人……いや、そもそもこの程度の頻度でしか事故は発生しないのに「欠陥」と呼ぶのが妥当なのだろうか。「1台あたりたった11ドル」で改修できるのに……と考えるのか? 改修費用(≒技術的困難さ)の問題なのか。そうだとすればやはり、費用便益分析の対象とすること自体に問題があるという話ではないわけです。

おt

このような功利主義の考え方は日本ではなかなか受け入れられないのでしょう。場合によっては原因不明であっても運転再開することはありうる、ということが心情的に受け入れがたいのです。


そういえば、サンデル教授の最初の方の講義にも限界事例がありましたね。


「19世紀の訴訟事件「ヨットのミニョネット号の遭難事件 」というもので、海上を遭難し、救命ボートに4人が残っていた。他の3人が生き残るために一番弱っていた給仕の少年を殺害し、その人肉を食べて生存した事件だった。
この事件について「道徳的にどう判断するか」という問いを投げかけた。」


これに対しては、


「ディベートの中で一人の学生が「いかなる理由があろうとも殺人は許されない」と頑に言い放ったことだ。
哲学的に考えるということはおそらくこの「いかなる理由であろうとも殺人は許されない」のはなぜなのかを考えなければならないことなのだと思う。彼はそれを拒否し、とにかく理由はないと言い放つのは思考停止のアレルギー反応に他ならないと思う。戦争や殺人についてこうしたアレルギー反応を起こす人は少なくない。だからそこを考えないと、と思うのだが」というコメントがあります。


その通りだと思います。ばあいによってはこういう設問自体不謹慎だとか不道徳だとか非難されるようになると・・・もはや合理的な議論がそこで止まってしまう仕儀となります。どうも日本ではこういう空気感がありますね。


最近の楽天やユニクロのように社内公用語英語化の動きは、日本語的思考フェーズを切り替える哲学的効用はあるのだろうと私には思えます。ドンッ
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