この物語的自己という意味は、narrativeという言葉のことのようです。ハーバード大学白熱教室は今日の日経の一面コラムにも引用されていました。本もベストセラーかも。


narrativeといえば、物語というよりも、説明。言葉でシナリオをつむぐ、というイメージですね。


自分のアイディんティティ、自分の生活様式から当然常識と思っていることがら。その意味では無意識の氷山。水面下の氷山といえるかも。


人によって、これが違う、ということから、多元的価値化をみとめるのなら、物語的自己は、あくまで生み出した地域やコミュニティの副産物ということになってしまう。不変性はない。唯一善なるものでもない。多元的社会では善の共通定義などないのだ。


あくまで主意的な、自分の意思で選びとったものだけが正義なのか、それとも人によって正義が違う、ということがあるのか・・・


こうした合意がなくても、正義が何のかを決めなくてはいけない、こともあります。


それが裁判ですね。


同性婚姻をみとめるかどうか、米国での判例は、それについて多元的価値があるからといって判断を逃げることなく、国家として何が正義かについて踏み込んで判決している。それは、3人の結婚でも一人でも男と男でも、個人の恒久的な約束について国家が承認を与える、とした。つまり、こういう結婚のテロス(目的論)に踏み込んだのだ。


これは社会的合意がなくても正義を決めなくてはならない場面。


主意的に考えすぎて、一部のコミュニティだけの文化や共通認識だけが正義だと考える見方には異論を唱える考え方といっていいでしょう。これがサンデル教授のコミュタリアンの考え方なんでしょう。


★★


しかし、実際、このようにテロスを示したり、合意が必要でなくても正義を示さなくてはならない場面というのは、裁判所や制度のように国家的な承認を与える場合だけではないでしょうか?


やはり近くの狭いグループやコミュニティの文化や共通認識こそが、正義を決める場面のほうが多いと思うのですが・・・・


いかがでしょうかね。
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