「Lecture20 奴隷制に正義あり?」から
※ 今までの講義の中で権利についての議論に目的と名誉という問題が含まれ、アリストテレスの正義の議論には、目的と名誉の二つの要素が不可欠であることが説明される。
アリストテレスの正議論が正しく、また説得力があるのか。
アリストテレスは、正義とは適合することだという。そこには、はたして自由はあるのか。
サンデル教授は、アリストテレスの目的論に基づいた正義論にはこのような問題点があることを指摘し、ジョン・ロックロルズの言葉、「目的論によって正義を論じた場合、平等な基本的人権が脅かされる」を紹介し、またアリストテレスの時代の奴隷制の問題
奴隷制が正義にかなうための条件
1、社会にとって必要であること
2、奴隷にふさわしい人がいること
嘆かわしいアリストテレスの言葉として、「生まれつき奴隷に適した人間がいることは事実である。肉体が魂と異なるのと同様に、このような人間は普通の人間と異なり統治されることが定められた人間なのだ」を紹介します。サンデル教授はこの言葉に彼も自身もいかがわしく、無理であることを悟っていたに違いないと、彼が反対派の意見を認めていた点があることから説明します。
、アリストテレスの目的論について学生からの意見を聞きます。
学生の議論の最終者、パートリックが、アリストテレスの目的論が政治哲学における議論の一致点を得る場合には有効ではない旨の今後の議論の重要な問題提起をします。
パートリック 先ほどのゴルフカートに関する議論が、アリストテレスの目的論的論法に対する反論を投げ掛けていたと思います。マイケル(前意見者男子学生)は、歩くことがゴルフの本質だと言いました。ぼく自身は歩くことは、ゴルフの固有のものだはないと思う。
この論争にどれだけの長い時間を費やそうとも僕達の意見がことはないでしょう。目的論的論法という枠組みの中では、僕達が意見の一致にいたることはできないような気がします。
サンデル教授 ではアリストテレスの考えに対する一連の反論について考えてみよう。ますパトリックの反論からだ。これは重要な反論だ。
我々は歩くことがゴルフの本質かどうか議論したが、そのような一見些細な話においても、同意に達することができなかった。
もっと重要な問題、例えば、政治的コミュニティーの根本的な目的を論じるとしたら、意見が一致するはずがない。
市民の共同生活における、目的や善について、同意が得ることができないのであれば、我々は、目的や善という概念に基づいて、正義や権利を考えることもできないだろう。
これは重要な反論だ。だから現代の政治理論の多くが、善についての意見の不一致を出発点としている。
そして結論としては、
正義や権利や憲法は、特定の善の考え方や、政治的生活の目的などを前提とすべきではない。
そうではなく、権利の枠組みを提供し人々に自分達の善や人生の目的を自由に選ばせるという発想をしているのだ。
メアリーケイト(前意見者女学生)の言ったのは、例えばある仕事にふさわしい人が、もっと高いところを目指したい、別の生き方を選びたいと思ったらどうなるのだろうか、という問題だった。
ここで再び自由の問題が出てくる。もし私達が、自分達の本質にふさわしい役割に基づいて、生き方を決められてしまうなら、少なくとも私達がその役割を選ぶ自由があるべきではないか。
どの役割がふさわしいか、自分達で決めるべきではないか。アリストテレスとカントやロールズの論争を思い出して欲しい。
カントとロールズはパトリックと同じ考えだった。
多元的な社会おいては、善き生の本質について、同意することができない。(カントとロールズ)
だからこの問いに対する答えに基づいて正義を考えるべきではない。カントとロールズは、正義と特定の善の考え方を結びつけるような目的論を退けた。
ロールズ的、カント的なリベラル派によれば、目的論の論争で重要なのは次の点だ。
正義をある特定の善の概念と結びつけ、正義が人と役割を適合させることだと考えれば、自由の余地は残されない。そして
自由であるためには、自分の両親や社会から与えられるような、特定の役割、伝統、あるいは慣習にとらわれるべきでない。(カントとロールズ)
ということになる。アリストテレスか、もしくはカントとロールズか、二つの大きな伝統のどちらが正しいのか判断するために吟味する問題がある。
1.権利は善に優先するのか
2.(自由な人間)自由な道徳的主体とはどのようなものか
自由とは、自分の役割や目標、目的を選択できることなのだろうか。
それとも自分の本質を見つけようとすることなのだろうか。
以上で講義終了