キムヨナさんとの比較でいうと、3回転アクセルを3回成功させてギネスブックに載る大成功だったのに、銀メダル。「悔しい」というんですね。(写真は時事)
これは、ディープカルチュア分析すると、どうなるでしょうか?![]()
真央選手は3回転トリプルアクセル(正面向きで踏み切る)という恐怖感克服の大技に挑むことにすべてをかけました。つまり「技を究める」道を究める、ということです。たとえ、ルール上、その配点割合が少なくて、割に合わない努力だったとしても、それは構わないのです。気にしないのです。そうでなく、誰にも(キムヨナにも)できないことをやってみせるところに価値がある。
それは勝負を度外視しています。道を究めればいい。
それは成功しても満点以上の点数はでないのに、他を犠牲にしてでもそこだけで満点を狙う、それに価値があるということですから、12点とれたとしても満点は10点しかとれません。
無駄な努力です。キムヨナ選手は、そんな道を究めることに価値は見出していません。全く。キムヨナ選手の価値は競争で勝つことです。
でも真央チャンにとっては、負けてもジャンプに成功したので、無駄ではない。目的は達成しました。つまり2人は価値観が逆。目的が違っているのです。
それは「道を究める求道者」 vs 「競争で勝つこと」 という価値観のトレードオフです。![]()
問題は、点数が比較の上で低くて負けたとして、真央チャンが悔しがることです。だって、勝つ努力はしてこなかったのですから(ジャンプの努力はしてきたけど)負けたからといって、悔しがることはない、はずです。
でも悔しい。ということは本音では、競争を意識して目的化していたんですね。
これが、日本人が大競争社会つまりメガコンペティションで、勝てな
い原因です。薄型テレビで韓国サムスンにパナソニックやソニーが勝てない真の原因です。競争に価値を見出していないからです。![]()
どうしてでしょうか。
韓国や中国では囲碁の世界でも勝負重視です。以後はスポーツ同様に位置づけられ全国から優秀なこどもを集め、徹底した競争原理のもと国家チームに組み入れて、情け容赦ない淘汰をし、世界戦に優勝したら兵役を免除します。
これに対し、日本では囲碁はスポーツではありません。文化芸術の一環と思われているので、、勝つことだけでなく人格育成とか美学を重んじます。つまり「その手は実践的だが、私にはそんな醜い手は打てない」というわけです。つまり、勝ち負けではない、ところに価値を日本では見出すのです。美学といってもいいかもしれません。
でも競争の価値からしたら、そうですが、本来悲観することはないのです。道を極めたのですから。目的は達成したのです。
囲碁でも美学。実は、スポーツでも美学。だって、勝てないことがわかっているのに、ジャンプだけに努力を集中してきたんですから。
国際商戦でも同じです。
だから、これからも日本のグローバル企業もメガコンペティションでは、美学を追求する限り、永久に、勝てません。勝つことが美学にならない限り。
というわけで、かなり日本のビジネスパーソンの心に深く存在する「道を究める求道者」 vs 「競争で勝つこと」 という価値観のトレードオフが解決できないかぎり、グローバルに成功することが、むつかしい、(というより、成功できない、ということが正しい言い方)という悲観的なことになりますね。
日本人にとって、勝つということは、そもそも美学にはない価値なんですね。だからMBAで競争戦略を学んでも、コトラ―を勉強しても、競争戦略という概念自体、自分の外にあることであって、自分自身の原理にはとりこんでいないんです。
そこに気がつきました。![]()
しかし、1人の人間として、個人として、何を価値観にもつのか、根底にもつbottomlineなのか、はとても大切なことです。
面白いのは、囲碁でも早めの英才教育で強くなった韓国・中国の選手棋士は、30代になると下り坂になるそうです。日本人棋士は50歳代でも第一線でいるそうです。シニア世界戦がゴルフのように存在していたら優勝するのは日本人だろう、という見立てがあるくらいです。
キムヨナ選手もこれで引退かも。800万ドル収入あれば、これ以上選手生活を続ける意味は、勝負の世界で勝った以上、あまり意味がありません。それに対して、道を極めた真央チャンは、新たな道を見つけて、あるいは、勝負でも勝つために、まだ残りの人生の時間をフィギュアにささげることになるでしょう。それが求道者の姿だからです。
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