スノボの国母選手は、結局8位で、メダルをとれていたらまた別だったけれど、いばって腰パンで威勢を張ったのに、「負けて」しょぼい8位ということで、また批判を浴びていますね。
今日の週刊ポストでも「呉智英」という人が、国母本人と周囲の大人(?)たちの「無自覚さ」」を批判して、なぜ大人たちはこの国の若者にドレスコードの意味とサムライの義務を解けないのか」と声高に批判していますね。
サムライの義務というのは意味不明だが、ドレスコードがあるパーティなのに、それをわざと外すのはパーティから締め出されてもしかたのない話、ということは前回書きました。
でも、まだ追究不足。この呉智英という人は、日本帰化された人なのか、在日外国人なのか。どちらにしても、その日本人の内なる外国人としての声なら、聞く価値あったのに、と残念。言っていることは年配のメディア関係者か文科省と全く同じで、面白みなし。![]()
そうではなくて、もっと深く、国母クン問題の最下部に潜むロジックの問題に光を照射してほしかった、と私は思いました。![]()
その点、秀逸だったのは、なんと日経の記事で、2月22日スノボ悩める「居場所」という丹羽政善というスポーツライターの方の書いたもの。
スキーとは別物のスポーツなのに、スキー連盟とIOCの傘の下にはいったばかりに、文化として、スキー文化とスノボ文化が相いれないものを一緒にしてスキー連盟が吸収合併したところに問題あり、といってます。確かに私のスキー観からするとスノボは全く別の原理で動くもので、スキー場でも禁止されていたところさえ昔はありました。![]()
しかもスキーに吸収合併されたので、スノボ競技場もスキーと同様のアイスバーンになったというのは知りませんでした。スノボではアイスバーンはなかったんですね。なるほど。![]()
そうなると、ますます今の五輪のスノボは本来のスノボでない、『スノボ的スキー』、ということになります。
それなら、五輪に出ずに、別種の競技会を組織することはおおいにあることですね。
スノボ創成期の大会で他を圧倒したケリー選手は、五輪競技シーンから去ったということで、彼に追随して出場しない選手も多く、今も『在野』にメダル級の芸達者がゴロゴロいるそうです。
前回書いたように、個人主義の世界では、集団主義の枠をはめられるとハナコさん問題をおこし、その集団を離脱して自分の集団を作る、というのが個人主義の外国人的行動原理である、としましたが、まさに、そのような行動をおこしていたんですね。
ここでも個人主義vs集団主義のロジックと外国人ならたいていリ離脱を選択する行動様式のありかたが、またしても、普遍的に見えてきてしまう、というのが、おそろしい。それこそ異文化の深層文化つまり意識せずにそう行動させる深層共通心理、ディープカルチュアそのものです。![]()
そこでこの丹羽さんというライターの方は、本来迎合せずに独自のファッション性と競技性を確保したいなら、国際スキー連盟から脱退して独立すべきだといっています。
今もスノーボーダーはパーティに呼ばれたのに、席がない、(つまりお呼びでない)という気まずさがあるのです。
国母クンは、その中での自己主張だったのでしょう。
それなら、それで、脱退独立すべきだと思うんだけどな。国母クンがもう一度五輪を狙うというのは、スノーボーダーの出自と個性を否定して、集団主義に巻き取られていく最悪の選択ではないか、と思うのですが。それなら、8位で結構、自分でスノーボード連盟日本支部を立ち上げればいいじゃん。![]()
だけどそれには凄いエネルギーが必要だし、カネもいるでしょう。それをするのが、危ない不確定の将来に身を投じるリーダーシップだと思うんだけど。
それがもしできないのなら、国母クンは、集団主義=和の世界=やすらぎ=に立ち居ちを置く典型的日本文化を心の底にもっている、ということですね。そうだとすると、異を唱えないほうが身のためです。批判の嵐は避けられない。
もちろん、そのような生き方も、アリ、ですが。否定はしません。ただ、そういうことです、ということです。
そこまで深く深層文化に立ち入らないと、この問題は理解できないのではないか、と思った次第。
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