そもそも異文化コミュニケーションって、何なのでしょう?
異文化紹介番組でしょうか? 違います。
ナニコレ珍百景世界版のこと? 違います。![]()
どうしても、この部分がひっかかりがあって、
きっと、外国人が異文化コミュニケーションというイメージと、日本人がもつ異文化コミュニケーションのイメージが違うんですよね。![]()
だから異文化コミュニケーションには日本にいる外国人同士のほうが話が通じるし、
逆に日本人は異文化コミュニケーションといってもその必要性なんかちっとも感じないし、exoticなイメージや、エピソード紹介のイメージになっちゃうんでしょうね。
これが異文化コミュニケーションの発展を阻害していることに今気がつきました。
で、どうしたら、いいか。
異文化コミュニケーション、という言葉は、まだ日本人世界にはなじみがないんですよね。
異文化が異人さんとのコミュニケーションのことだとおもってしまうんですよね。それなら私には関係ない、と。
でも、次のようなコメントに最近東京工芸大学の展覧会で、出会いました。それは、認知という問題、言い換えると、内なる異文化体験深化ということです。これはだれしもが経験することなんです。どういうことでしょうか?
引用してみます。
「私たちは、モノがなんであるかを判断する時、その物自体よりも、置いてある場所や一緒に置いてあるものなど、、周りの環境をみて、それがなんであるかを判断します。そして、それが普段の生活の中で誰もが当たり前のように何度も経験しているので、人は、自身がいかに環境に影響されながらモノを見ているか、ということに気づいていないのです。
ここにあるモノたちは、それは人間の当たり前の感覚を綻ばせ、気付かせるような道具たちです。
普段よく目にする食器や文法具。私たちは一度見ただけで、それが何かわかるはずなのに、例えばそれが見た目と全く異なるものであったとき、人はどういう反応をするでしょうか?
驚きや面白さ、また自分が知らないうちにいろいろなものに当たり前の感覚として固定したイメージを持っていることに気づくはずです。
自分の中にある「当たり前」が壊れたときの不安、それは小さな頃のように新しい発見をしたときのような面白さやワクワクした気持ち。
そういうことを味わえるような作品を制作しました。』![]()
これはモノだけでなく、人つまり他人についてもいえることです。それが内なる異文化経験であり、それをもたらした人モノへどのように対峙したらいいのか、を知ることが、異文化コミュニケーションだと思います。
このことから、異文化コミュニケーションが単なる異文化紹介ではない、ことがわかります。もっと内なる体験です。自分のもっている当たり前と思うもの、ノーマルと思う感覚、そういうものが壊れる瞬間にどのようにしたらいいのか。
それは、ある意味、空気を読んでそのまま黙ってみんなについていくのか、それとも今立って声を出して行ってみるのか、相手の心を乱す、自分も不安になる、その瞬間をどう扱うか、そのこと、何だと思います。
それをリーダーシップというひともいます、それを異文化コミュニケーションというひともいます、十牛図の中の牛飼いワールドという人もいるでしょう。認知科学や脳神経学の範疇だともいえそうです。そのことは、かなり内面世界のことであることだけは確かです。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
セミナーやってます。
異文化コミュニケーションセミナーはコチラ☆


実は、これは文房具で、メモ帳なんです。