前回この問題のトバクチをつけたので、さらに考えてみることに。


またしても写真のソースはサンケイから
スッキリ解決!英語&文化のコミュニケーション・セミナー ということですが、そもそもの発端は「国母クンが9日に成田空港から出発した際、選手団の正装である日の丸付きのジャケットを着ていたが、サングラスをかけ、ワイシャツのすそをベルトの外に出し、スラックスは腰骨の下まで下げてはくなどしていた。全日本スキー連盟は報道で知った人々から抗議を受けたという。」わけです。腰パンというスタイルですね。


これについての深層文化にはどういうことが考えられるのか、前回は集団主義と個人主義について見てみました。でも、もうちょっと深く考えて見ようと・・・さて、何が見えるのでしょうか?


① まず、もし国母クンがあなたなら、どうします。


私なら、もし自分が本当に上手くて金メダル級だと自覚していれば(本当に客観的にも実力があるという条件付きですが)、他のワールドカップとか他のメーカー協賛の大会に出て実績とカネを手に入れられるので、あえて五輪に出ない、という選択肢ですかね。いいよ、俺が出なくていい、というならそうするさ、そんなにそもそも五輪に価値があるのかね、ということです。これって、個人主義のとんがった形ですかね。


逆に、多くの場合、とくに日本人の場合、このようにはしないでしょうね。別の道をとる、集団から離れて独自に団体を立ち上げる、などという発想は日本人は採りません。普通の場合は、頭を下げてでも仲間に入れてもらうことを選択します。


しかし、外国人とくに西欧の人の場合、それなら別の道を行くさ、という選択肢を取る人がほとんどといっていいくりで、非常に多いのです。チェック


これは異文化コミュニケーションするときに、人がどのように動くかという予測について、予測がはずれることが多いということで、考えておくべき事柄です。日本人でこういう決断をする人が実際にもしいれば、相当異星人(異文化あるいは非常識、ノーマルでない人)と思われてしまいます。ショック!


たぶん国母クンも、タレントとしてやれそう、とか、別の団体を旗揚げしてやる、みたいな野心があれば別ですが、そうしたワイルドな気持ちを根底にもっていなければ、やはり、ゴメンナサイして、集団に頭を下げていれてもらうということになるんでしょうね。もし金メダルをとったら、その自信で、自分の内なるワイルドな声が目を覚まして、別の道を歩むということもあるかもしれません。らぶらぶ


② さらに、オーナーシップがどこにあるか、という観点のディープ・カルチュアがあります。つまりownershipが自分にある場合、たとえばコツコツと自分の力でここまで勝ち進んできた、誰かにサポートを受けたわけでもない、というケースです。実績の積み重ねが自分のおかげであれば、他人にどうこう言われる筋合いはありません。この見方で、TVの現地の人たちのインタビューの中からは、国母クンの服装は自分でやってきたことの集大成だから、いいんじゃないの(自分のファッションセンスではないけど)という肯定的反応が街中であったのは、これです。太陽


逆に、誰のおかげだ!という場合は別になりますね。


これはowenershipと名付けますが、スポンサーシップともいえます。税金でいくんだから、この服装は怪しからんという言い方もこれです。


実際、たとえば、スピードスケートのように協会が育成のためのカネと設備を提供してここまで強化された、戸いう場合は、このsponsershipで、協会の意向を国母クンも重視していたでしょう。カネの出し手を意識し、その意図に従うということです。


監督が3人もそこにいたのに、国母クンのこんな格好をさせて見過ごすなんて、といって、全日本スキー連盟の指導監督不足だと批判されることがあります。これも協会や連盟が全部面倒を見てくれていたのなら、そうでしょうが、たまたま五輪用監督になった人にどれだけローヤリティがありますかね。


面白いのは、このowenership sponsership重視で判断する見方は、日本人も外国人も共通だと思います。いわば集団主義・個人主義と違って、ある意味グローバルスタンダードなんですね。チェック


③ 正式かどうかつまり、official or unofficial という判断基準もあります。もしタイをきちんとしてズボンをキチンとはいて・・・ドレスアップするのです・・・というのはそれが「正式の場所」だからです。これはなんでもどんなところでも勝手に「正式」とされた以上(その権限があるかどうかは全く別です。)そこに服装を決める権限があります。イエイ


たとえば、パーティなどで、アタイアが指定されることがあります。服装指定ですが、主催者が(勝手に)決めることができます。それを守らないと、ガードに入場排除されることさえあります。そのとき、その服装規定はおかしいでしょ、ということは非常識なんですね。それはそれとして無条件に受け入れなくてはパーティに参加できません。


五輪に行く、というパーティなんですから、決められたドレスコードを守るのは当たり前。ということです。


このofficial or unofficialという観点も、グローバルスタンダードだと思います。チェック


④ uniform or standard という基準も関係しているかもしれません。日本企業のアメリカ現地法人で社名入りユニフォームを着用することがよく摩擦になります。高校の制服も同じです。


これは、服装が一定の共通意思や所属を明確にする、という機能があるからです。同じユニフォームを着ることで、(デザインの好みは別にして)、ロゴを服装に取り入れて同じ会社に帰属するということ、同じ思想や行動規範を共有することを誇示することが目的です。だから、むしろアメリカの会社でも同じプロジェクトに参加する社員はわざわざ同じTシャツを発注してそのプロジェクト参加の事実を誇示してチームアップをはかりモチベーションを挙げることさえやるくらいです。


この発想基準で国母クンを考えると、日本チームの一員であることを外部に誇示する、そして日本チームのスピリットを強化してモチベーションを挙げる、という観点であれば、ルーズにせずにむしろ積極的に同じものを同じように着こなすことこそ、チームの強さ誇示という結果につながるので、そうすべきだった、ということになります。


このuniform or standard という判断基準も実はグローバルだと思います。チェック


⑤ 最後に、大人の対応 vs こどもっぽい という判断基準があります。


これは、こんなところでこんな格好するなんて国母クンは子供だねェという見方です。同時に、こんなことで、目くじら立てるなんて大人げないという見方です。国母クンに対しても、また批判する文科省大臣やSAJ協会側に対しても同じように、批判を投げかけることのできる「万能殺し文句」です。


こういう発言をする人は、どちらの見方にもたたないことで、安全圏に身を置きつつ、批判して優位を保つ手法をとっているのですね。


これも実は、ロウコンテクストとハイコンテクストの対立なんですが、それは別の機会に譲りましょう。


この大人 vs こども 対立は、グローバルではない、ようです。日本人特有の判断基準ですね。チェック


こういう第3者的見方を提供しますと、外国人の場合は、ではお前の意見はどうなんだよ!とすぐ突っ込まれます。音譜

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