都市封鎖、州境封鎖、外出制限と、長期に渡って厳し目だったインドのロックダウン。再々々延長が決定し、今日18日から月末までロックダウン4.0が開始。もう今日で55日目だけど。笑
外出制限38日目の5月1日、州の農政部から許可証を得て、私たちは夫の実家ヒマーチャルプラデシュ州の山村に移動した。
チャンディガール市では感染拡大の兆候もあり、仕事の再開もしばらくは望めず、そのタイミングで実家の村では例年の麦の収穫期を迎えていた。
いつ都会に戻って来れるのか定かではないけれど、一人農業をする義母を手伝わない訳にもいかない。
早朝4時、初めての州境封鎖突破にドキドキしながらタクシーで発つ。
お願いしたドライバーも不安そう。道中、交通量はほとんどない。結局、州境と村の入り口の2箇所の臨時検問所で車を降り、警察のチェックを受けた。
諸々の判断は夫とドライバーにお任せして、私は途中の景色を撮ったり、村に行ったら何しようか考えたり。
車や人の少ないインド北上の道中はインドらしからず、故郷の北海道の景色のようだった。
タクシーがギリギリ入れる山道でタクシーを降り、2人で大きな荷物を抱えて畑の中の実家に到着し、前庭に座って朝食の準備をするお義母さんの姿を見た時の感慨はひとしおだった。
しばしの間の、インドの農村生活が始まった。
長期滞在になっても良い様に荷物を多めに持って来ていた。今回はお義母さんの隣の部屋に滞在。
朝は小鳥のさえずりで目をさまし、昼間は森を歩いて花や植物を観察し、夕方は外でバドミントン、夜は虫の声を聞いて早めに就寝。面倒な親戚付き合いもロックダウンで皆無。。
。。のはずが、、
2日目にはお義母さんの大きな声に耐えられなくて発狂。笑
北インドの山村の人たちには、多分大声でコミュニケーションを取る必要があるんだとは思う。民家同士が離れているし、畑の中で小さな声で話しても聞こえないもんね。それにしてもお義母さん、朝から晩まで誰かに叫んでる。独り言さえもデカい。
特に耐えられないのは、夫の呼び方。村中に響き渡りそうな大声で「ムンヌー(赤ちゃんw)!」って。夫も嫌がっていた。
そして工事中の貯水タンクを作る手伝いのおばさまたちに指示する時は、更に怖い声を張り上げる。。何もそんな厳しくしなくたって誰も間違えたりしないと思うのに。
長期滞在で見た義母の本性は、私の一番苦手なタイプだったという。笑
滞在3日目には夫の弟も街から帰郷した。「ロックダウンで仕事がお休みになったお陰で、母と兄弟の久々の再会か〜!いいね!」なんて勝手におめでたい妄想をしたのも束の間。
この弟が滞在中、私が堪忍袋の紐を何度もぶっちぎるキッカケになってくれた。。笑
インドは本当、どこまでも私の限界を試して来る。
日本や先進国の常識は、ここでは簡単に覆される。
今までの自分を見事に信じられなくさせてくれるよね。
でも、
何が本当の自分なのか、否応なしに手痛く目覚めさせてくれる気もする。
前みたいに制度や常識、流行りに右習えしていたら、私はインドの農村では暮らせないのだろう。
結論を言うと、私にはやっぱり夫の実家のあり方に従うのは無理だった。もちろん良いところもいっぱいあるけど(自然・風土・無邪気さ)、それよりも闇の深さが半端ない。
無意識の闇、教育や経済が行き届かないことの闇、弱者の闇、共依存の闇そして世代間連鎖。厳しい生活から出現する人間の闇の部分なのだと思う。
まず、健全な精神を保つために必要とされる事が成ってない(と思う)。
外国人の嫁である私の扱いに困るのか?隣の人や弟さえ、私と目が合っても挨拶もしない。こちらから挨拶すべきと思われてるのは仕方なくても、めっさ寂しいやん。泣
お義母さんは息子たちが帰って来たのに、最初の3日間はご飯を作って食べさせることをしなかった。必然的に食費も私たち夫婦持ち。
それより一日中工事現場や畑仕事に貼り付いて趣味の大声を上げている。
。。何かこう、家の中心が不在で心が噛み合ってない感じが満載。まず、義弟の心が離れて行くのが見えた。何の手伝いをするでもなく、彼も一日中電話でぐーたら友だちと喋ってばかり。
私と夫が家事全般を担った。プラス、麦の収穫の手伝いやタンクに水を貯める仕事も。
さすがにこの家庭ヤバい?と思い始めた私。。笑
唯一この環境に来た収穫があったなら、それまでの幻想の自信が削ぎ落とされて、周りの全員を敵に回すとしても本当の自分の信念だけが残ったことだろうか。
(私ってこんな人だったけ。。。!?)
と、良くも悪くもガツンと目覚めるのかもしれない。ちょっとした異次元体験だった。