トラウマを作る思い込みは、現実じゃない | 北インド☆ゆるヨガライフ

北インド☆ゆるヨガライフ

ヒマラヤで出会った夫と、北インドローカル暮らし8年目。
お見合いが主流のインドで年の差婚、3度の流産、文化や習慣の違いに奮闘中。
スラム支援のNGOで働いたり、子宮腺筋症と共存しながらゆるーくヨガを続けたり。
40代インド生活の気づきと学びです。

何をもってして「現実」と呼べるのか。

十人十色とも言えたり、みんなそれぞれの「現実」があっていいとは思うけど。

 

「事実」さえも書き換えられる世の中で

どんな現実を信じるのか、その人しだい。

 

だから、可能性が広がる。

これからの現実をより良くする可能性。

今までの現実の、誤解を解く可能性。

トラウマを解消する可能性。


もっと自由に視点を選べるのだとしたら、

光のある現実を選びたいと願う。

 

 

頭の中の声を聞いて、それを意識し始めた時から、何気ない日常を送っているけど、過去にグイッと引き戻されてやり直すような夢(良い夢だけど)を見たり、SNSの知人の投稿にシンクロしまっくたり、今まで避けて来たジャンルの話題がグイグイ入って来たり。

 

あと心が敏感になりすぎて気が立つ感じがある。私大丈夫か?って思うけど、日常生活は大丈夫。気も狂ってない(と思う笑)。大事な時期かもしれないので、出来れば書いておきたいから、心理とか精神世界とか苦手な人はここでストップでお願いします。

 

 

 

今日の気づきは、

 

本当は

(現状感じることと逆で)

私は愛されていて

万全にサポートされていて

孤独にならなくていい

 

ってこと。

 

 

今日実は朝から気持ちが落ち着かなかった。春になると乾いた空気のせいか元々うるさい町の騒音がさらに共鳴する。そして近所さん、ドアも開けて網戸だけになるから爆音のテレビや大声の会話が響きまくる。


さらに隣のアンティーが陽気に誘われてうちのベランダで日向ぼっこしだす(毎回お帰り願うけど、なぜ1日3回も戻って来る?)。

 

もぉやめてくれーって感じで、

その勢いでドアとその上の窓の泥を洗い落とす作業に入って無心になりたかったけど、平常心に戻れない。夫に、このくそ狭小集合住宅なんとかならない?とメールするも「ごめんねー。愛してるよー。」と、何も解決しなかった。

 

当面解決出来ることは、私の内側にしかない。

 

それでメディテーションをした。

 

最近なぜか耳から離れないサナト・クマラというガイドスピリットの、ガイドメディテーションをYouTubeで引っぱった。自力で呼吸に集中するマインドフル瞑想は、気が立ってる時は無理。

 

色んなガイドメディテーションが世の中にはあるけど、声とか音の感じが「何かいい!」って直感で思うのを選ぶと良い。そもそも、その時々で合わないものが殆どだし、波長が合わないのはすぐ中断するといい。

 

 

今回のは「おおぉ?」という深みのある声のトーンで、意外性に魅かれたのと、ちょっと怖いもの見たさ。違和感を受け入れた途中から、心の中で色々な事が起こった。

 


聞きながら、私の過去で最大のつまづきと言えるような場面がいくつか現れた。一生乗り越えられられるかどうか怪しい、どこからどう考えても、何年経っても自分を完全に許せていない出来事たち。

 

で、今日見たシーンで、私は毎回毎回、1人きりだったことに気がついてしまった。

中学生のあの時も、20歳だったあの時も、その後のアメリカでも、いつもイザと言う時には1人きり。

 

そして今も、インドで1人きり。。。に、なりかけている。

 

ぶわーっと、涙が流れて止まらなかった。

 

え?どういうこと?って。

 

1人きりで全部処理して、誰にも悟られまいと平気な顔して過ごそうとしている過去の自分が見えちゃって、でも今見ると、そんなことやってたらトラウマになって当たり前だし、本当にバカだったんだなって。

 

誰にも言わない様に必死で自分を止めながら、内心は助けを求めることを止められないし、そのうち年月が過ぎて「あの時も、次も、いつも」周りは誰も助けてくれないと思い込んでいる。


全部自分のせいだからって。


 

メディテーションのガイドを聞きながら、小さかった頃、父や母、祖母たちが私をどんなに大事にしてくれたか、その温かい感覚が蘇った。

 

まだ私が、変に突っ張ってその手を振り払うことを覚える前のこと。

 

転んで少し傷しただけでも、包帯とかおまじないとかでいっぱい手当てしてくれた。トイレで呼ぶと必ず来てくれたし、楽しくお風呂に入れてくれて、かわいいウサギの爪切りで爪を切ってくれて。いつも双子の妹と色違いで服をコーディネートして着せてくれて。

 

小学生になると私のワガママが始まった。ある時は母に髪を切り揃えてもらおうとして、でもうまく伝えられない私の要求は止まらなくなり、さんざん母を困らせた。売り切れのおもちゃを探してクリスマス前、父を深夜まで車で走らせたり。ワガママになったのは私。着せてくれるものは気に入らなくなり、夕飯ギリギリまで友だちの家にいたり。

 

私は突っ張ってたんだね。

父も母も、仕事で家にいない人たちだった。

持て余されても理解されなくても、仕方のないことだった。

 

色んな原因があるんだろうけど、今日見えたのは小ちゃなツッパリの私。

 

もしも娘の一大事を知っていたとしたら、駆け付けないはずがなかった両親。親としての試行錯誤の日々。そんな「もう一つの現実」が目の前で温かく展開された。


忘れていたのか、見ないようにしていたのか。

 


もしあの時私が、「聞いて」と言えてたら。

夜中だからって遠慮せずに、一本電話出来ていたら。

ああなる前に、話せていたら。

 

そんな事ばかりだった。本当は。

 

私は本当は、1人で生きていい存在じゃない。

 

愛されてこの世に生まれて、周りの皆んなに大事にされていた存在。

 

それを、どこをどうして自分勝手に突っ張って来たのか、何を守ってそんな風になったのか分からないけれど、そんなものは全然大事じゃなかった。勝手な思い込み。

 

周りに迷惑をかけちゃいけない、手を煩わせちゃいけない、心配かけちゃダメ、お金の負担をかけちゃダメ、なるべく時間をかけずにとか、なるべく時短でとか、そんな事を気に病んで、大事な事を忘れてる。

 


頑固な思い込みが見えた。「何故だか分からないけど、私は迷惑をかける事ばかりやらかす(起こる)から、なるべく他人さまと関わるべきじゃない」と思って必死に結界を張ってる。

 

でも育つ過程で人の手を煩わすのって、今考えるとフツーのこと。

長い人生、誰にでも大変な事は起きるだろうし、それは私だけが悪いからでも、人に迷惑かけるからでもない。

 

むしろ、そこから復活して成長するためにあるのに、

いつまでもウジウジしてたら成長止まってるわ!!!

 

↑トラウマ、トラウマって悲劇チックに呼んで酔ってたのかもだけど、成長を止める変な幻覚剤みたいなもの。


現実に起きたこと、歪めちゃってる。


 

今の自分がどんなに突っ張って内心苦しんでたか

よぉーーーーやく分かった。

 

 

無意識で思い込みのパターンを自動的に繰り返してた。

 


かなり強固に思い込んでいる「現実」。


でも何を信じるのかは選べる。忘れてた事実や、封印してる真実や、自分についてる嘘から早く自由になって、


せっかくなら、愛のある現実をつくりたい。

 

もっともっともっと、幻想の苦しさから目覚めていきたい。

 

 

今日のメディテーション。私には結構強烈でした。びっくりした。