インドの幸せと私の新月 | 北インド☆ゆるヨガライフ

北インド☆ゆるヨガライフ

ヒマラヤで出会った夫と、北インドローカル暮らし8年目。
お見合いが主流のインドで年の差婚、3度の流産、文化や習慣の違いに奮闘中。
スラム支援のNGOで働いたり、子宮腺筋症と共存しながらゆるーくヨガを続けたり。
40代インド生活の気づきと学びです。

私の誕生月、乙女座の新月がやって来た。インドで迎えるのは3回目。個人的に感じるのは、去年までとは流れが違うこと。何せ去年まではインドの暮らしが不安で億劫で、絶不調ばかりだった。孤独でもあり、落ち込むと中々抜けられず。

が、今年は違う!笑。飛行機を降り立つと恐怖でしかなかったデリーでも、その独特の魅力を楽しもうと腹を据えた。住んでるチャンディガールでも、不便さやないものねだりにフォーカスせずに、出来る事をしよう!と決めている。

去年はとことん内面を見つめる時期だったけど、今年は友達の輪(古い?)も広がっていて、ここチャンディガールに暮らす日本人の友達もでき、その存在を感じるだけでどんなに心強いことか。ずっとブログを読んで下さっている方々にも、日に日に感謝が募って行く。

過去からの問題やカルマに向き合う段階から、これからは、人間関係や実践で府に落として行く段階に入ったか?。。。希望も含め、入ってたらいいなー。

占星術での目に付く変化は、私のアセンダントの蠍座にいた木星が、次は射手座に移ろうって段階なこと。唯一無二の「自分」との密な関係から、他者とか社会との関係へのシフトは、この辺から来るような。


さて、先日はアパートのバルコニーを巡ってちょっとした面倒が起きていた。最近引っ越して来た同じ階の奥さんが、頻繁にウチのバルコニーに来て佇んでいたり、そのうち洗濯物まで干し出した。最初は「こんにちは!何してるの?」とか話しかけてみて様子を見てたら、「タイムパス(暇つぶし)してるだけ。」と言う。

インド人の「タイムパス」(インド英語)は、日本人から見ると際限がない笑。しかもココ、ウチのバルコニーですよ!←って言うのを、中々言い出せずにいて。

心が狭いと思われるかもしれないが、一度境界線を曖昧にすると、どんどん侵入してくるかの様に感じられるのが、インド人と私の微妙な関係。笑。特に「まあまあ、いいじゃない」気質だった私は、自らのなまぬるさ?で、折角友だちになれたと思ったインド人との関係も、最初にハッキリさせなかったが為に、修復不可にして来た。

本音を言えない関係は「友だち」とは言い難いのだ、どこの国でも。しかしインドでは話が早い。何故なら皆、本音を隠さずガシガシ来るから笑!友だちになりたいのか、そーじゃないのか?はすぐ分かる。こっちもスピード勝負!で積極的に働きかけなくてはいけない。まあまあしてる時間が命取り。

こちら(インド)の人のやり方も尊重しなくちゃ、と、去年までは思ってた。ある程度は住民のやり方を学ぶのは礼儀だろう。しかし今となっては、2年間さほど文句も言わずにきた実感もある。学んだのでこれからは、私自身の価値観を前面に出しても良いと多少は感じてる。インド人こそ、自分の居住スペースに侵入されて文句を言わない人はいないのだし。

で、ついにある朝勇気を絞り、ウチのベランダでダラダラしてるアンティーに、「ここは私たちが契約してるプライベートな居住スペースなので、あなたはご自分の居住スペースで作業をして下さい。」←みたいな事を穏やかに話して、英語ができる娘さんに訳してもらった。

そしたらその後、一切寄り付かなくなりました!笑

(なぁんだ、友だちになりたかった訳じゃないんだ。。。)って寂しさはさて置き、インドで権利を主張してみるってことの、ほぼ初勝利。私の軟弱な意志が、ちょっとは強くなった瞬間でした。←大袈裟か。





インドには最初、ヨガや信仰の形が見たくてやって来た。人間の「普遍的な幸せ」って何なんだろう?って。そしてどんな好奇心も、もう抑える理由もなくなっていた。

今のところはインドにも、ヨガにも、信仰にも、勝手に期待し過ぎていたことを日々思い知ることになり、勝手に失望しながら、また勝手に良いところを発見しながら、揺れながら、それでもゆっくりと、何とかここへ根っこを張ろうとしてる。笑


私は夫とよくお寺巡りに行く。昨日はヒマチャル州のシュリ・ニーナ・デヴィ(Shri Naina Devi)というお寺へ。ヒンドゥー教の神話では、シヴァ神の最初の奥さんが何かの争いで(ウロ覚えw)滅ぼされた時、全身のパーツがインド全土に落ちて散らばり、それぞれが聖地になってるんだけど、このお寺は彼女の「目」が落ちたと言われる所。

 


シュリ・ニーナ・デヴィ寺院にて。警官が参拝客の整理にあたる。日曜で、本尊を拝めたのはたった5秒ほど。

お寺は細い山道をバスとジープで大分上がった山の頂上にある。そんな立地であるのにも関わらず、参道から裸足で登って来た参拝者でお寺の入り口はごった返しており、インドで列に並ぶのが大嫌い(本気で押されるから!)な私は、恐怖の絶頂に。

そんな私を「僕ここに来るの9年ぶり!」とテンションの上がってる夫は、「守ってあげるから大丈夫」と盾になってくれたけど、何せ彼もインド人、多少は仕方ないと思ってるから隙だらけで縦横無尽に押されるし、とにかく私の神経の限界は超えた。

押し合いへし合い。横入りも何でもアリ。


先述の通り、パーソナルスペースの侵害には結構神経質な私。入り口に押し寄せる何百人って数の参拝客の様子を見てると、段々腹立たしくなって来る。

「どうしてこんなに必死に、人を押しのけてまでも神頼みに来るの?自分だけ良ければいいんですか?」って、ぎゅうぎゅう並びながら夫に文句も言いたくなる。夫はただ、困った顔してこっちを見てた。まるで「私」が困った人みたいに。。。?!笑

確かに他に誰も文句なんて言ってない。憧れの聖地に参拝できる喜びと興奮でいっぱい。ヒンドゥー教で生まれ育ってない私とは温度差があるのだ。きっと色んな苦労を乗り越えて来た思いが、前へ前へと来る熱意となって、グイグイやっちゃうんだろう。(基本インドって、列では必ず押して来ますね。)

私もお伊勢参りだったら大人しく並ぶかもしれないし。

人間の幸せっていうものには、本当に「色々」あるんだってこと、視野をこじ開けてよぉく見なくてはと思う。自分だけ、自分の家族だけを思う熱意も、「幸せ」を実感しているかの様に、高揚して感じられることだろう。

千人以上来ていそうな参拝客の中で、外国人は私くらいなものかもしれず、ジロジロ見られるやら、「私たちが先よ」という一押しを喰らうやら笑。一方でご本尊の前で仕えている方には、特別にパルシャートや聖布を頂いたりと、まぁ色々でとにかくハラハラする。

神秘の国インドには、私たちの知らない幸せがある。

そんな風に昔、漠然と思っていたことは、完全に間違いではないけれど、どんどん注釈が増えて行く。笑


山頂へ行くロープウェイもある。。。って手押しかい!w

確かに日本人の常識にはない強さ、熱意、素朴さゆえの、「信じる心」はある意味幸せだ。でもそれは、この場所で生きてきた人間として、家族や集団主義の安心感で、他を知らないが故の幸せでもあるかもしれない。情報がありすぎて迷いが多く、何を選んで良いか分からない私たちとはやはり、違うところも多い。

違うからこそ、夫の真直ぐさには癒されたりもするけど。

ヨガの神秘に憧れても、アーユルヴェーダの秘儀に惹かれても、占星術がまるで、幸せへの魔法のカギの様に感じていたとしたって、私の幸せは、私の中にしか存在しない。やっぱりね、だけど。笑

もう幸せ探しはお終いにして、私なりの幸せを自分で一から作って、できれば周りにも広めて行く時期なんだろうね。最近そう感じることが増えてきた。

どの様な幸せであれ「自分の幸せ」に素直で忠実でいられること、その自分軸のズルい程の強さは、インドの人たちから日々学ばせてもらっている。そのズルさ(強さ!ね)は、どこから来るのかな?自分だけじゃなく、他者(愛する人)を想う気持ちなんですかねー?と、ウスウス、感じてもいる。

 

 

人を愛することが、自分軸になる?

 

私には目新しいテーマである。
 

参拝の後は皆で食事。全て無料でボランティアの方々が提供。インドの素晴らしさ、信仰の本質を介間見ます。