この1年ほどブログを書いてきて、読み返してみると、「心の平和」を願う思いとはウラハラに、
予想外だったり、
大きく変化を伴う事象だったり、
教訓を得た心境になったり。
ドラマ好きな人?では決してなくて、本当に心は無邪気に平穏を求めてるので、読んでて「何矛盾したことしてるんだろう?」と、若干落ち込み。。。そしてとっても不思議に思った。
スピリチュアルなもの、インドとか、ヨガとか、ヴェーディック占星術とかに、どうにも強力に呼ばれ続けてきて、常識を脇に置いて、後先などは考えず日本を後にして、夫になる人と出会って、付き合ってから結婚に至るまでも障壁が色々とあり、どんなに無邪気に(無意識に)やりたい事を望もうと、必ずまたドラマが生まれてきそうな状況で。。。
これは何なんだ?と。笑
去年の最後の方では、「潜在意識」を明らかにするワークを始めてみたり、宇宙の仕組みについての新たな説や、占星術に勝手にのめり込んで行って、日常生活を忘れそうにさえなった。
でもそのまま星の影響を調べるうちに、どうして私がこうなっちゃってる(笑)のか、少なくとも出生チャートで意味が理解できて、色々とびっくり。
「人生の航海図」が、出生時の星星の配置によって描かれいて、年齢を重ねる毎の変化も追うことができるなんて、すごく神秘的だけど、しかもものすごく詳細に、ある意味正確にプランニングされているのを目の当たりにすると、恐ささえ覚えたし、それ以上に、これを人類の英知として研究し体系化した占星科学のスゴさ、頭の良さ?に驚愕だった。
インドの占星術ではアセンダントを第一ハウスに置いて、その人の生まれ持った素質を見る。西洋占星術の「毎日の占い」では太陽がどの星座にあるかでゾディアックを決めるので、ずーっと乙女座だった私。アセンダントが蠍座だった。
あぁ、だから神秘的なもの、オカルト、スピリチュアリティー、隠れた事実に魅かれるようになってるのね、と。
西洋占星術では「ノース・ノード」「サウス・ノード」と言われる「ラフ」と「ケートゥー」が、対で惑星のように扱われ、ときに(人格化)して表現され、その比重もヴェーディックの方が重くて重要視されてる。
アセンダント蠍座と、「ラフ」が重なっていた私。ラフは「求めても求めても渇望する」っていう性質を与える。でも「食」(日食・月食)を引き起こすラフの影響は、ある年齢を境に解けて行くと言われてる。人によって35歳とか42歳とか。これも、すっごく思い当たる所があった。若い頃は宗教とか、神頼みみたいで嫌悪感があったのが、ここ数年の歩みで突き抜けて来てしまったから。
アセンダントは第1ハウス(蠍座)で、ラフもいるので、これまでアイデンティティーの危機とか、何のために生きてるのか探す旅をして来たようなものだけど、ラフの「モヤがかかった」状態を抜け、ここに来て自分の道が見つかった、らしい。最後のあがき、最後の一押しで、去年の末の強烈な渇望があったのか。(トランジット惑星の蠍座への影響を受けたかな?)
アセンダントの反対側には7ハウス、私の場合は射手座になってて、恋愛とか結婚とか、愛情、他者との関係を表す場所。第1ハウスのラフの反対側でもあるから、当然対になってるケートゥーがいる。ラフが「今生で追い求めるもの」のハウスに居るのに対して、ケートゥーは「前世までに成し遂げてマスターしているもの」を現す。恋愛・結婚・他者との人間関係は「当然手に入るもの」「もう満足している」前提として、しばらく生きてきたってことになる。
ケートゥーも42歳とかで影響が薄れるから、私もようやくこの年齢で夫に出会って結婚したってことと重なる。第7ハウスには火星もいたので、絶対的な情熱を持てる関係、100%信頼し、開示し合える相手じゃないと全く満足できない人。夫も第7ハウスに火星を持つ。だから相手に取って不足なし、ってなったんだろうか。笑
運命的だとか、カルマだとか、過去生からの繋がりだとか思う出会いって、こういう仕組みかもしれない。じゃないとまさか、40も過ぎてインドに渡ってインド人の結婚相手に出会うなんて、常識では自分でも思ってもみない。笑
太陽乙女座的な常識よりも、潜在意識や感情を司る「月」が第5ハウスにあって、木星と並んでるので、自分の中の無邪気な気持ちを特に大事にしたくて、気持ちに忠実に生きたいと思うのかもしれない。でも太陽乙女座の「常識」とか「秩序」とか「献身」みたいなものを、行く行くは体現したいのだろう。
夫の出生図も読んで行くと、どんどん客観的に彼の「本来の性質」として受け入れられるようになり、私がたまにカチンと来ることなども、お互いの性質によって「そう感じる」ようになっているだけ、と分かった。彼が私に何を求めてるのかも、何となく分かってくると、夫に「引け目」とか「申し訳なさ」を感じた時に一番辛かったのが、そういう仕組みじゃないことが見えて、自然と楽になったかも。
出生図の他にも数十ものチャートがあり、ハウスだけじゃなくサインだったり、惑星同士のアスペクトだったり、更には12星座どころかその背後に27星座(ナクシャトラ)があり、更に108の「ヨガ」と言われる組み合わせがあったり、より細分化されピンポイントの読みが可能になることが、ヴェーディック占星術が正確だと言われる根拠だと思う。でも私はまだまだ、膨大な叡智への最初のページを開いたばかり。
それぞれの星座に神や女神、シンボル、マントラ、物語りが対応して5千年も存在し続けてきたのもスゴい。ヒンドゥー教の経典「ヴェーダ」を読み解くと、占星術が厚みと彩り、人間らしい物語りを持って生き生きと蘇り、有機的で生かすことのできるツールとして、活用できるようになるのではと思っている。
ジョーテシュとも言われるインドの占星術は、膨大な情報量、そして神聖なものとして扱われるため、習得に時間がかかるのは一目瞭然。「何となく」興味を持っていた時は、そういうものが気になって一歩踏み出せずにいた。でも、航海図は既に描かれていて、目の前でそれが紐解かれて行くのが見えると、その光の射す道を歩まずに、留まることの方が難しいかもしれない。
恐れるものも、行く手を阻むものも、私を満たすものも、私の気をそらすものも、みぃんな書いてある。そしてそこでどう考えて何を感じ、どう行動するのか、常に私自身に選択権がある。
27ある「ナクシャトラ」と呼ばれる星座で、最もスピリチュアルである星座と月が重なっていて、「解脱」とか「悟り」とか、私の今生で達する高みはどうも、魂の領域にあるらしい。なんて書くとものものしいけど、魂のこと、潜在意識のこと、過去生から脈々と続く魂のストーリーを紐解いて、光に変える役割があるんじゃないかと思う。
ヴェーディック占星術の道は、ヨガの技法や哲学の道と同質のものとされる。巡り合わせや偶然、思い込みや衝動など「根拠のないもの」と戒めてきたものも、魂の航海図にはっきりと刻まれている道標なのかもしれない。迷うことなく大海原を行く灯火が、この先ずっと灯り続けると思うと、深い深い安堵に包まれる。
ヨガも占星術もパートナーシップも、私にとっては長い旅の行く末にかすかに見えてるだけだった。20年来の深い霧が、ようやく晴れようとしてる。