ブーティさんの「本質を生きる」(1):「本質を生きる―それは日々を神聖なものにするアート」 | ユニティインスティチュート

ブーティさんの「本質を生きる」(1):「本質を生きる―それは日々を神聖なものにするアート」

「本質を生きる―それは日々を神聖なものにするアート」

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これから月一くらいで、【ブーティさんの「本質を生きる」シリーズ】を書いていただけることになりました。

今回はその第一回、「本質を生きる―それは日々を神聖なものにするアート」をお送りします。


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「本質を生きる―それは日々を神聖なものにするアート」

少し前、買い物をした帰り、車の運転をしていたときのことです。

押しボタン式の信号で一時停車、その横断歩道をおじいさんが犬を連れて渡っていました。

だぶだぶのズボンをはき、かなりくたびれた大きめのシャツを着て、靴もすっかり擦り減ってしまっていて、おぼつかない足どりを気にかけるようにゆっくりと歩いていました。

そして手には飼い犬を繋いだリードを持っていました。
その犬も、随分年をとっている様子で、ところどころまだらに毛が抜けています。
そして少しふらつくようにヨタヨタと歩いています。

横断歩道の真ん中ほどに来たとき、おじいさんは少し立ち止まって、犬が追い付くのを待っていました。
そしてリードを持つ手に少し力を入れ「さあ、早くおいで、渡らなきゃ」と犬に合図を送るようにして、また一緒に歩いて渡って行きました。

横断歩道を渡りきったところで、おじいさんは屈んで犬の首輪からリードを外しました。その背中をポンポンと叩き、そしてまた少し足を引きずるようにして、犬と一緒に歩いていきました。
年老いた犬には、リードをつけていることも負担なのでしょう。
おじいさんは穏やかな笑顔でした。

信号が青になって、また車の運転を始めたのですが、その光景がなぜか胸を打ち、前が見えなくて困るほどにぽろぽろと涙が流れてきました。
不意打ちを食らったみたいに、ほとんど嗚咽をこらえるようにして、家まで車を走らせました。

なぜ、その光景がそんな風に涙を誘ったのだろうか、と後で自分自身に問いかけてみました。
はっきりと説明できるものではないのですが、その光景は、とても美しく尊いものに触れた時の涙を誘ったのです。

おじいさんは足が悪いようで、早く歩くことができません。
連れの犬もまたゆっくりしか歩けない。
歩道をゆっくりと、自身の足取りに注意しながら、慌てることなく犬を気遣いながら渡り、そして渡りきったところでリードを外してあげる、その全ての行動にある慈愛に触れたのでした――慈愛を感じた、と意識する間もなく、私の内側に圧倒されるものがあって、それが涙となったのでした。

こんな風に心が動かされることを「感動する」と言います。
感じて動くものが内側にあるということ――それは、このような光景であったり、絵や音楽のような芸術であったり文学であったり、見たり聴いたり読んだりすることで、私たちの内側にあるいくつもの本質が脈動すること…。

人が本質と共に在るとき、日常のどんな些細な行為の中にも神聖さと美がある、そしてその神聖さと美に触れた時に感謝が湧き上がります。

先だってのような光景に出会うとき、自分を省みて、はかなく感じてしまいます。
いったいどれほどの時間を、一日の中でそのように過ごしているだろうか、と。
僅かでもいいから、そのように過ごせたらと思うのです。

そして、そんな風に思う時、自然と、ごく当たり前のささやかな事柄――たとえば部屋を片付けたり、お皿を洗ったり、洗濯物を畳んだり、花に水をやったり――そうした小さな事柄を、気づきをもって丁寧にしよう、と思うのです。

すぐに忘れてしまうのですが、思い出しては、何度もそう思うのです。

本質を生きること、それは日々のさりげない一瞬一瞬を、なにか神聖なもの、美しいものにするアートだと思います。

OSHOの言葉を少し・・・。

「・・・そして、いつもそこにある喜びの中で生きることを、あなたに許さないのはエゴなのだ。
そして、不断の喜びは頂(いただき)ではないということを覚えておきなさい。
実際、それは祝福というよりはむしろ平和のようなものだ。
より平和のようなものだ。祝福はそこにある。
だが、芳香のようなものだ。
あなたは手で掴むことはできない。
それはそこにある。
しかし、とても非直接的だ。とても微妙だ。
とてもデリケートなものだ。
それは頂ではない。
そのことは確かだ。
それはとても平凡で素朴だ。

タダ、あなたは自分の平凡さを知ることを恐れているから深刻なのだ。
そして、それは真実だ。
真実は決して平凡ではない。
いったん、あなたがその平凡さを受け入れたなら、あなたの、まさにその平凡さから非凡さが起こる。
あなたの平凡さは光り輝き、まばゆいばかりだ。
その時は瞬間瞬間が贈り物だ。
瞬間瞬間が、それ自体の喜びを、平和を、美しさを連れてくる。
しかし、決して絶頂に恋い焦がれることのないように。
絶頂という考えそのものが、エゴの投影だ。
そして、深刻にならないように。
取るに足らないことをに考えないように。
深刻になることなど、何一つありはしない。

もうちょっと笑って、もうちょっと活き、遊びに満ちていなさい。
そうすれば、生が何であるか解るだろう。
それは笑っているときにやってくる。
深刻な時にではない。
深刻な人は閉じている人だ。
深刻な人は役に立たない人だ。
深刻な人は、窓という窓、扉という扉を閉め切っている。
深刻な人は自分の中に閉じこもってしまっている。
彼は決して橋を架けようとはしない。
彼は扉を閉じ、橋を架けない。

笑いなさい。
笑いは橋だから。
愛しなさい。
愛は橋だから。
些細なことを楽しみなさい。
生は些細なことでできており、些細なことを楽しむということが橋なのだから。

それゆえ、禅の人々は、お茶を飲むことさえ瞑想にしてしまった。
ただ、お茶を飲むということを。
誰がそんなことを、何か宗教的なことだと思うだろう。
しかし、それは変容し得る。
それはあなたの姿勢次第だ。
あなたはとても瞑想的にお茶を飲むことができる。
瞑想的にお茶をすすりなさい。
それを味わい、香りを嗅ぎなさい。
湯沸かし器の音を聞きなさい。
その湯沸かし器の奏でる歌を。
内側の蒸気のダンスを。
香り始める繊細な匂いを。
それを生きなさい。
それと共にありなさい。
それを祈りに満ちた瞬間にしなさい。
その時、ただの普通のお茶が、何か神聖なものに変容する。
そしてもしも、こういうことがお茶で起こるのならば、他の何ででも起こり得る。」
OSHO 「ユニオ・ミスティカ」より

                          ブーティともこ 記
               http://essentiallifeconsulting.jimdo.com/


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ブーティさん、ありがとうございました。m(_ _)m

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