「恩寵の法則」その6 (イタリア編) | ユニティインスティチュート

「恩寵の法則」その6 (イタリア編)


「恩寵の法則」その6 (イタリア編)


このシリーズはイタリアで開催された「恩寵の法則」のコースでの内容の一部を20回のシリーズでご紹介します。

恩寵の法則では、さらにもっと大きなものとのつながりの中で人生を生きることを学んでいくことになります。

今回はその6回目です。

人生を本質から生きるための知恵をお楽しみください。

ちなみに、日本での「恩寵の法則」は2012年3月9日(金)~12日(日) 
東京で開催されます。
https://unityinstitute.jp/schedule/booking.cgi?code=120309-11Pr_EL3_f




(はじめに)

「私の反逆、私の新しい人間とは「ゾルバ・ザ・仏陀」だ。人類は魂のリアリティを信じて物質を非現実なものとするか、物質のリアリティを信じて魂を非現実的なものとするかのどちらかだった。これまでの人間を精神主義者か物質主義者に分類することはできるが、誰も人間のリアリティをあえて見ようとしたものはいなかった。人間は両方をあわせたものだ。人間は精神だけではないし、つまり、ただ意識だけで存在しているのではないし、ただの物質(肉体)だけでもない。物質と意識とがすばらしく調和している存在なのだ」OSHO

レディガガは「クリエイティブティが存在における最大の反逆だ」というOSHOの言葉を引用して「反逆者」というOSHOの本が最も好きだと語っています。
http://dotsub.com/view/ea274ca7-5f1d-4443-9fbe-79d7b42771a7
http://terran108.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/lady-gaga-i-lov.html

彼女はこの現実世界で最も成功しながらも精神的なものをも生きる「ゾルバ・ザ・仏陀」をめざしているのかもしれません。

ゾルバというのはギリシャに生きた享楽主義者であり、物質世界に生きた人間とされています。
http://terran108.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/lady-gaga-i-lov.html

仏陀は説明するまでもなく、精神世界を説いた人の代表です。

その両方を生きることが、本当の人間だということを「ゾルバ・ザ・仏陀」とOSHOは語っています。

内側というのは内面の世界である仏陀を表し、外側というのは物質的な世界であるゾルバを表しています。

内側の世界と外側の世界を同時に生きるとは、この「ゾルバ・ザ・仏陀」、新しい人間として生きることを表しています。

では、恩寵の法則 第6回をお楽しみください。




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6回目
「内側と外側を同時に生きる」

内側の法則を学ぶことは交通規則と同じように重要です。

同時に、瞑想がもたらしてくれるものを学ぶことは、交通規則を学ぶこととはとても違っています。

瞑想は私たちの気づきを拡大します。
自分の内側に対する気づきが拡大すると、突然、内面にあったものが成長しはじめます。
あなたが気づくものが何であれ、気づくことによって、それは成長します。

もしあなたがただ内側に入れば、それだけでもそれまでとは違った多くの変化が訪れます。
しかし、もしあなたが外側の人生と関わらないで、内側にとどまるために、自分の修道院のなかで生きることにすると、それは退屈したものとなり、あなたの内面はあまり成長しません。

内面が表現されるためには外側を必要とします。
ですから外側と内側の両方が重要なのです。
ただ内側に入って自分の内なる本質を発見し、そして自分の家にひとり閉じこもって座っているだけでは、あたなに多くのものは得られません。

もしあなたが本当に自分の人生で変容を望んでいるのなら、内側と外側の両方が重要です。
それが私たちが提供しているものです。

私は過去に外側を無視して内側に入ることだけに何年も費やしてきた経験から
私たちには外界も必要なことに気づきました。
両方が同じくらい必要なのです。
外側を持たない内面はすこし悲しげで、ドライで、何かが欠けています。

また内面がなく外側だけだと、たくさんの物を持っていても、本当の満足を得ることはできません。
素敵な家とか、何であれ外側で自分が望むものを手に入れるために多くのエネルギーを投入してもそれを手に入れたとき、実際にはあなたがそれまで期待していたような感じをそれはもたらさないかもしれません。
それは満足なものではないかもしれません。それはあなたを幸福にしないかもしれません。
なぜなら私たちが本当に求めているものは内側とつながること、そこにある質とつながることだからです。

ですから、そこに外側だけがあっても、これらにつながる内側の質が伴わなければ、たとえ外側の欲しいものをすべて手に入れても無意味に思われるのです。
また外側でも生き生きと活動できることなしに、内面だけにいても、それはほとんど干からびた、少し貧弱なものになってしまうのです。