以前、facebookに載せて反響の大きかった記事です。
反響があるということは多くの皆様に知ってもらった方がいいことだと思いましたので、
こちらでも再び載せておきますね~
以下、転載です↓↓
これを書くかどうか?
迷ったのだけれど書いてみよう。
「鈍る」ことの恐ろしさ
人間は眼・耳・鼻・舌・身・意を使い
視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・感覚
で自分の周りの世界を知る。
何のためか?
生きるためである。
言い換えれば、
生きるということはこの感覚を使い情報をキャッチし、死なないように行動することなのである。
種としての人間の「生きる」ということを定義するとしたら、
常に変わり続ける環境に対し、死ぬまでそれを感覚し、自らを変化させ適応していくこと。
つまり、「変化し続けること」である。
変化できなくなった時が「死」であると言える。
この6感覚は、言わば危険察知センサーなのである。
しかし、この感覚の鈍りは自分自身ではなかなか気付けない
なぜかというと、すごく分かりにくいお話だけども、鈍っていても、
敏感であっても、自分の感覚ではいつでもちょうど良いと思っているのです。
私たちは客観的に背骨と骨盤の状態で体を観察しているのですが、
体では食べ過ぎの体になっているのに本人は食べ過ぎている感覚がなかったり、
明らかに体が冷えているのに冷えを感じていないなど、
実際の体の状態と感覚に差異があることが多いのです。
「ただの鈍りでしょ~」と甘く見ていてはいけません。
例えば、ガンになっている方というのも、
していることや体が壊れていることにも気付けていない状態なのですから。
体を立て直すための症状も出せない状態なのに
「わたしは風邪も引かないし、全く元気ですよ。」という方なのです。
こういう方こそ、すべてが鈍いので何を言っても理解できず、
行動も起こさないので変化しないのです。
そして、より症状がすぐに収まってしまう薬の乱用により、
体の自然な働きは鈍らされていることも事実です。
「分かっているんですけど…」
鈍っていることが分かっているならこれは鈍りではないのです。
まさに鈍りはそんな名前がピッタリなのです。
これが「鈍り」の正体です。
どうか、最初の鈍りを作らない生き方について考えていただければと思います。
こんなお話はあまりしたくはないのですが、
みなさまの気付きになれば幸いです。
長文にお付き合いくださりありがとうございました。