13世紀に神聖ローマ皇帝が「言葉を教えなかった赤ちゃんはどんな言葉を話すのか」という疑問を持ちました。

 

フリードリヒ2世の「赤ちゃん実験」

これは非常に悲劇的な実験でした。

 


この実験では、赤ん坊を複数集め、乳母が最低限の世話だけを行い、会話やスキンシップ、アイコンタクト
微笑みかけなどを一切禁じました。

 


赤ちゃんたちは最低限の衣食住の世話はされましたが、ほとんどの赤ちゃんが3歳までに死亡し、1歳を待たずに亡くなった子も多くいたと言われています。


この実験によって、コミュニケーションや愛情の欠如が、赤ちゃんの心身の成長に致命的な影響を与えることがわかったのです。

赤ちゃんが健全に育つには、コミュニケーションとスキンシップが不可欠であるということです。

 

 

 

今あなたが生きているということは、誰かがあなたの世話をしてくれたからです。

微笑みかけてくれたからです。
 

 

 

どんなに拗ねても、歪んだ捉え方をしていたとしても、身近な誰かのお世話があったから、今あなたは生きています。

 

 

 

そういう私も、ずっと毒親に苦しめられてきましたが、この事実に気づいてから

自分はただ拗ねていただけなのではないか?と思うようになりました。

 

 

 

確かに自分の中に、親に酷いことをされたという記憶はある。

断片的な一瞬の記憶がどれだけ正確だっただろうか?



記憶には無くても、そのほとんどの時間は大切に育てられていたんじゃないか?



拗ねていてそれを認めたくなかっただけじゃないか?

 


若い時の子育ては、未熟で不器用で自分の求めていた態度や言葉がけではなかったかもしれないけど

今生きているということは、大切に育ててもらっていたから。

 

 

熱が出れば頭を冷やしてくれ、ケガをすれば手当をしてもらっていたんだと。

 


 真っ直ぐに捉えられるようになったのです。



それ以降、まるで霧が晴れたかのような清々しい気持ちになり、過去の辛い経験も温かく優しい記憶に書き換えられたのです。


 


拗ねれば自分のプライドは守れるかもしれないけど、その拗ねを自分が何かを失敗した時や挑戦できない時に都合の良い言い訳にしていないか?



親に◯◯されたから、今自分はこうなってる…

上手くいかないのはトラウマのせい…




本当だろうか?

 

 

 

あなたはずっと愛されていた。

わたしもずっと愛されていた。

 

 

生れてから今も変わらずすっと愛されている。

 

 

 

誰かのせいにしていると、人生という船の舵取りを他人に明け渡してるのと同じ。

 

 

 

自分軸で生きるというのは、自分の人生を創っているのは自分だと気づき、意識的に生きることなんです。