季節の間に立っていた少女、それが手塚理美だった。 | 宮脇 流の「昭和を話そう」 ( BOSSのブログ)

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70年代や、あの時代に輝いていたアレやコレや。
クリエイティブディレクターが語る、「思い出のエッセイ」です。

手塚理美

確かに可憐だった。1975年度の2代目ユニチカマスコットガールとして、手塚理美は登場した。今でこそ、可憐でセクシーな中学性は珍しくもないけれど、あの頃はホントに新鮮だった。ユニチカのマスコットガールは、スイムウエアのキャンペーンガールでもあったので水着姿も多く、当時14歳の彼女が起用されたこと自体、驚きでもあったのだ。ちなみに、74年度(初代)のマスコットガールは風吹ジュン。それだけでもイメージづくりに力を注いでいたことがよくわかるだろう。ユニチカの戦略は見事に成功し、手塚理美はユニチカの名とともにブレーク。特に75年度のユニチカカレンダーは、撮影を岡本太郎や伊丹十三が行ったことでも話題となり、78年までの4年間 彼女はマスコットガールを続けた。その後、NHKの連続テレビ小説に出演し、国民的ヒロインへの階段を駆け上がっていった。ご覧の写真集「四色の花火」は、ちょうどそんな頃。どこにもいそうで、どこにもいない。そんな空想の中にいた少女が、83年のドラマ「ふぞろいの林檎たち」ではハッキリとものを言う大学生を熱演。いいドラマではあったし、女優としての手塚理美を確立させはしたけれど、山田太一脚本の長台詞を話す彼女は、少女の季節の真ん中あたりに立っていた危うい感じの手塚理美では、もうなかった。

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