当初の計画では、午前中に鹿島神宮でのお参りを済ませる予定でした。
が、実際には鹿島神宮の鳥居をくぐったのが12時近く。参拝を済ませたら1時になっていました。
表示した地図では、息栖神社は一番下の端近く。国道124号線沿いにチャリンコを走らせればほぼ道に迷うことなく行けるとふんでました。ところが方向音痴の才が遺憾なく発揮されてしまい、道を迷うこと迷うこと。
途中、第六天を見かけたら、写真撮ったりして。
ようやく、息栖神社に着いたらもう午後3時過ぎ。賛辞じゃなくて惨事ですね、こりゃあ。午後4時半までに自転車を返さねばならないのに...少々焦りはじめましたが、時既に遅し。でも、余裕こいて社号標とチャリンコの記念写真とか撮っているんですよねぇ。
「いきす」とはホツマツタエによれば、(往来す/活す)・息栖で、行き来させることとか活性化させると言う意味があるようです。一般常識から判断すれば、いきすの「す」は場所的にみて川に囲まれている「州」からきていることは明らかでしょうが。
ご祭神は岐神、天鳥船神、住吉三神とのこと。岐神をウイキペディアから引用します。
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岐の神(くなと、くなど -のかみ)、とは、日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。
「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味[1]。もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神であり、道祖神の原型とされる。読みをふなと、ふなど -のかみともされるのは、「フ」の音が「ク」の音と互いに転じやすいためとする説がある。以下のように、意味から転じた読みが多い。岐(ちまた、巷、衢とも書く)または辻(つじ)におわすとの意味で、巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)、峠の神、みちのかみとも言う。また、障害や災難から村人を防ぐとの意味で、さえ、さい -のかみ(障の神、塞の神)、さらに「塞ぐ」の意味から転じて生殖の神、縁結びの神、手向けの神の意味を併せるところもある。
神話では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。
『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。これは『古事記』では、最初に投げた杖から化生した神を衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)としている。
なお、道祖神は道教から由来した庚申信仰と習合して青面金剛が置かれ、かのえさるから転じた神道の猿田彦神とも習合した。平安後期以降では仏教の説く六道輪廻の概念から生じた末法思想を背景に、六道に迷った衆生を救う地蔵菩薩信仰が民間で盛んとなり、岐の神として六地蔵が置かれるようにもなった。
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私が前回参加した三社巡りツアーでは、宮司さんが話をしてくれて、確か、ご祭神を塩椎神(しおつちのかみ)と話されていたと記憶しています。
塩椎神は宮城の塩竃神社のご祭神で武甕槌神と経津主神を案内した方ですから、ここでも同様の話になっているのかと思っていました。ご祭神についてはまあいろいろあるようですから、ここでは深く追求しません。私の感覚では猿田彦さんとご縁のある神社かと勝手に想像していました。
岐神でも塩椎神でも猿田彦さんでもとにかく案内する立場の方だったということは間違いないと思います。天鳥船神もそうですね。
前回の三社巡りツアーでは、この神社が一番興味深かったのですが、今回は状況的に焦ってますから、ついついつま先立ちした感のある巡り方になってしまいました。
カメラも自転車の荷台に載せてガタコトさせたのが悪かったのでしょうか、調子悪いです。私のカメラワークもだんだんおぼつかなくなってきました。参道です。
神門です。
内側にまわると碇と説明文があります。
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おきすの津(港)と碇
大船の香取の海に碇おろし いかなる人か物思わざらむ(柿本人麿)
今よりはぬさとりまつる船人の 香取の沖に 風向うなり(藤原家隆)
広大な内海であったために、香取の海といわれた古代の水郷の中で、おきすの社と呼ばれた水の神、息栖神社の所在する息栖の地は、おきすの津(港)と呼ばれて、周辺の陸地との交通上の船着場として、大きな港としての役割を果たしていた。
徳川時代になると、幕府の拠点江戸と東北との交流が盛んになり、その水上輸送路は、江戸川・利根川・水郷地帯・銚子川口から鹿島灘といった航路が選ばれていた。これらの長距離輸送には、当然大型船舶が用いられ、その往復途上、息栖の津に立ち寄っては、息栖の神々に航路の安全と、家族の安泰とを祈願した。この碇はそうした祈りをこめて、息栖の神に献納された物であろうが、それが何船によってのことかさだかではない。けれども潮に晒され、鉄片のはがれ落ちた碇の姿から、道の奥(東北)と板東(関東)との間にたって、物資輸送に励まされた船人の、遠い昔を偲ぶ手がかりとなっている。
帆柱ぞみをつくしなる大船の かとりの浦の見るめからねど(利根川図誌より)
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力石と芭蕉の句碑。
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力石
この力石は春秋の祭り夏の昼休み・夕涼みがてらに集った若者達の力競べに用いられたもので外にも幾つかの小振りな石があり、それぞれに手頃の石に挑戦し体力を誇り練り自信を深め最後に、この石を高々と差し上げた者が力の王者としての栄誉を受けたと云われている。野趣に満ちた極めて素朴な競ではあるが社の中で行われるだけに神と人間とが一体となって体力と気力の発散に汗みどろになって喜ぶさまが偲ばれる。現代人には程遠くなった祖先たちの青春時代の遺物の一つである。
なお、この石の一つ(右側の三十貫余)は対岸の侠客、笹川の茂蔵が自らの力を試すために使われ奉納されたものと伝えられ「茂蔵の力石」とも云われている。
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芭蕉句碑
この里は 気吹戸主(いぶきとぬし)の 風寒し
俳聖といわれた松尾芭蕉が、水郷地方を訪れたのは、貞享四年(一六八七)八月十四日で、親友・鹿島根本寺の仏頂和尚の招きで、鹿島の月を眺めるためであった。
この旅で根本寺・鹿島神宮・潮来長勝寺と水郷地方を訪ねまわった彼は、息栖地方にも足をのばしたもののようである。この句碑は、小見川梅庵・乃田笙々といったこの地方の俳人らによって建てられたもので、その年月は不明である。
句の意味するもの
いざなぎの尊が、黄泉[よみ]の国(死の国)からもどったとき、筑紫日向の橋の小門[おど]で、身体を洗い、きたないものと汚れたもの(罪や穢れ)を、すっかりそそぎ落し、浄め流した。その流れの中から生まれたのが気吹戸主(息栖神社祭神)で、清浄化・生々発展・蘇生回復の神である。
このいわれにあやかって、この神域に身をひたしていると、身も心も洗い浄められて、何の迷いも曇りも、わだかまりもなくなり、体の中を風が吹き抜けるほど透き通って、寒くなるくらいである。といった、息栖神域の醸し出す風趣・威懐といったものを詠みあげたものであろう。
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鹿島神社、伊邪那岐神社、高房神社、奥宮の四社合祀社。奥宮を合祀しているのは驚きです、普通しないでしょ。高房神社は鹿島神宮でもありましたね。拝殿に対峙するかのように位置していた小さな社。圧倒的な強さをもつ武甕槌神でも倒せなかった、星を祀る天津甕星(天香香背男)を倒した建葉槌神(たけはづちのみこと)を祀っています。
香取神社、手子后神社、八龍神社、江神社、若宮の五社合祀社。












