意富比神社(船橋大神宮)(1) 千葉県船橋市宮本 | 虫と花 人と鳥

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ウイキペディアから引用します。
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意富比神社(おおひじんじゃ)は、千葉県船橋市にある神社である。式内社で、旧社格は県社。船橋大神宮(ふなばしだいじんぐう)の通称で親しまれており、「日本一小さい大神宮」の異名もあるが、実際にはもっと小さな「大神宮」は日本各所にある。延喜式では、葛餝郡意富比神社の名称で登場する。

祭神
天照皇大神を主祭神とし、万幡豊秋津姫命・天手力雄命を配祀する。徳川将軍家の家康公、秀忠公も合祀している。

社名の由来
社名となっている「意富比」の由来については諸説ある。主なものを以下に示す。
大火あるいは大炊の意で食物神とする説。
夕日を真正面に受ける高台にあることなどから夕日とみる説
古代の有力豪族である意富氏の氏神とする説
大日の意で、この地方の農民がもとから信仰してきたお天道様(太陽神)とする説

歴史
社伝では、景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊の東征の折に当地で東国平定の成就を祈願したのに始まると伝える。当時、当地の住民は日照りに苦しんでおり、日本武尊があわせて祈雨を念じると、雨が降り出したとも伝える。元々同社では地方の太陽神である「意富比神(大日神)」が祀られ、特に周辺(東京湾)の漁民の信仰を集めていた。国史の初見は『日本三代実録』の貞観5年(863年)5月26日条で、延喜式神名帳では小社に列している。
後にこの一帯が伊勢神宮に寄進されて御厨(夏見御厨。船橋御厨ともいう)となり、その守護として伊勢神宮の祭神である天照大神を祀る神明社が現在の夏見台の日枝神社に建立されたが、御厨の衰退とともに神明社も廃れ、意富比神社に合祀された。その後、天照皇大神に対する信仰の方が強くなり、次第に意富比神社の社名は忘れられ、もっぱら船橋神明・船橋大神宮と呼ばれるようになった。戦国時代までは、この地域で、勢力を保っていた千葉氏系の豪族富氏が宮司をつとめていた。現在でも千葉姓に改名し、同族が宮司をつとめている。
同神宮には中世の文書が多数保持されていたが、明治維新時における船橋の戦いで社殿と共に焼失してしまい、現存しているのは、千葉満胤の書状や「船橋御厨六ケ郷田数之事」という応長年間の文書など数点のみである。明治6年に本殿、明治22年には、拝殿を再建された。明治5年(1872年)に県社に列格し、延喜式神名帳に記される意富比神社の名に復した。
朝廷・将軍家などから崇敬を受け、平将門、源頼朝、徳川家康などが社領の寄進や社殿の造営・改修をおこなった。神宮の境内にある常盤神社には家康の歯を納めた家康木造が安置されている。近代では明治天皇、大正天皇、昭和天皇などの歴代天皇も参拝に訪れている。

行事
船橋大神宮の奉納相撲(10月20日)
秋の例祭として行われる奉納相撲の歴史は古く、1590年(天正18年)に行われた徳川家康の上覧相撲に起源を持つ。当時、家康は下総で時々鷹狩りを催し、宿舎として船橋に離館が設けられていた。(現在の船橋市本町4丁目に船橋御殿があり、「御殿地」と呼ばれていた。跡地は船橋東照宮である)ある日、家康が相撲に戯れていた子供の姿を見てこれを賞し、信仰深かった船橋大神宮に奉納したものが起源と言われ、その後幕府自ら勧進元となった、由緒ある素人相撲である。
神宮の素人相撲は、強者が集まることで知られ、今でも東葛出身力士の育成に貢献している。また、少し前までは、漁師をはじめとする熱狂的な見物客が集うことでも有名で、判定に不服を持った観客が物を投げたり、行司をボコボコにし、万祝を着た若者衆と衝突するような光景も見られ、大いに盛り上がったという。
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角にある鳥居を潜ります。



石段を登ったところにあるのは船玉神社。社殿が船の格好していますね。



境内社のアパートメント。