飛鳥寺の山門を出て西200M程の所に
ある蘇我入鹿の首塚へ。
乙巳の変の際、600m離れた飛鳥宮で
中大兄皇子と藤原鎌足に討たれた時に
首が、ここまで飛んだとの説も有名
ですが、世の噂というのは凄い

飛鳥宮は、あっちの山の向こうの方面。

飛鳥寺の現在の山門の周りは、
のどかな畑が広がるけど、かつて
はここは境内の中。

でも、お寺から見える風景は当時も
こんな感じだったのかな


昔の貴族や武家の方のお墓、五輪塔と
呼ばれる形式の蘇我入鹿のお墓の首塚。

お詣りして、何故、蘇我入鹿は
討たれたんだったか考える

入鹿を討った後の大化の改新後の
律令制は中国の唐の制度を参考に
取り入れたけど、農民庶民にとって
は租税が厳しい悪政で、その後の
政治が良かったかは諸説あるよう
です。
乙巳の変についてもWikiをみると、
最新の研究では色んな仮説があり
興味深い

長いけど、詳しくは↓

中大兄皇子と藤原鎌足はここで
蹴鞠で出会い、645年大化の改新の
際には、飛鳥寺に陣を構え、
西門から甘樫丘の蘇我入鹿、蝦夷の館
を睨んでいた。
672年の壬申の乱の際には、広場を
軍隊が埋めつくし、噴水が置かれ
遠方からの使者を歓迎する宴会の
場となった~
西門のこの広場の歴史は凄い

ここで時代が流れるのを観て
みたくなる

消えていくし、京都のように宅地開発
や工業化が進むと変わり行く風景で、
明日香村の方々が代々、当時を偲ぶ
風景を保っていてくれるのは、
ありがたいと思う
