坂本でランチと本能寺の変 | まったり京暮らし

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観光地を避けた京阪神の街歩きや旅の備忘録と、季節の風景などを綴ります♪

しばらくは仕事で通りすがりのややディープな大阪の風景など♪

よろしくお願いします♪

お花見が忙しくなり少し間が

空きましたが、前回続きです~

良かったら、どうぞ音譜
ニュースでみたのですが、西教寺では
光秀の居城坂本城の時を告げる梵鐘を
3月末まで特別公開してるそうですニコニコ
比叡山の麓、坂本の町もいくつか
観光ポイントがあり、こんな町ですニコニコ
ここはまだ行けてないけど、近年の
研究で比叡山焼き討ちは、実際はこの
坂本の町がほぼ中心だった事がわかっ
たそうです。
 
何故かというと、この公人屋敷の僧の
ような暮らしを坂本で大半の僧侶が
してて、山の上にはほとんど誰も
住んでなかった。
そのため、この町を焼き払い山の方は
大きな総本山の延暦寺のようなお寺
だけを焼いて、他のお寺は焼かれた
形跡がないような事がわかったそうです。
 
そして、明智家の末裔と名乗る
明智憲三郎さんの本能寺の変
について書いた著書には、
その当時の戦などの詳細を書いた
記録書で秀吉公が生前に編纂した
『憔任退治記』と、没後別の方が
完成させた『信長公記』と、
さらには、『信長公記』を元に
別の方が書いた『甫庵信長記』では、
信長と光秀、その他の家臣との
関係性の描き方が異なると
書かれてて、興味深かった。
 
著者は逆賊の光秀公の汚名返上
のため、色々な資料をかなり詳細
に調べたようです。
 
私はさほど歴史に詳しくなく、
この著者の作品で、光秀が信長を
討った理由について、
 
①長年にわたり光秀と同盟を組んで
た同胞の武将、長宗我部元親を信長
が本能寺の変の翌日に征伐する
予定だった事。
さらにはその後、光秀も僻地へ
領地替えになりそうな不安。
 
②戦のない平和な暮らしを求めて
信長の天下統一に夢を託したが、
ポルトガルの宣教師が訪れた事で、
信長の世界制覇への野望が沸き立ち、
ついていけなくなった~ような事が
動機でないかと推測してて、すごく
納得したびっくり
③更に、別の武将を討つ計画で信長
が、京に向かわせた兵を本能寺へ
向かわせた?可能性があるという
ような事も。
 
その当時で既に光秀の年齢は60代
くらいだったそうで、技術が進んでる
海外への戦闘部隊で派遣されるのは、
御免こうむりたい汗
さらにそれでは、国が戦火にさらされ
そうで、目指した最初の目的と違うと
思ったに違いなさそうな②の要素と
平和な世を作るには、これ以上は
主君でも、信長に従えないとの思い
や今後の不安等、諸々の理由があった
と理解した。
 
歴史では、光秀を討った秀吉公が信長
の野望を引き継ぐも結局、秀吉も討た
れ、江戸幕府が鎖国を実施。
海外進出は、家臣の間で賛否両論で、
その代表で光秀公が謀反を起こしたと
いう見解はありそうだと思った合格
 
もしも、光秀公が信長を討たず、
世界に進出して、当時の中国や
スペインや英国と戦ってたら、
今の日本はないかもしれないドクロ

ただ、大国の持ってる先進技術を
見てこのままだと、いずれは攻めて
来られそうだから、今までしてきた
戦のように、先に探りを入れて、
攻めて来られる前に攻め落とせば
自国の安泰に繋がるという構想が
信長にはあったとも。
策を講じながら、隙あらば攻めの
攻防で、信長公なら虎視眈々と
世界への進出を狙いそうねー

大河ドラマを観れてなくて、どのよう
に描かれてたか不明で、既出かもです
が、色んな歴史研究の方が書いた
最新の資料を元にした本は面白いニコニコ
 
坂本駅前の街並みはこんなです
写真、右側に鐘があります。
何かあると、こんな鐘で町中に
知らせてたのでしょうねニコニコ
日吉大社~京都御所の猿が辻の猿
は御所から鬼門の方角にある
日吉山王社の神のお使いの猿だそうニコニコ
 
今回は時間がなく寄れなかったけど、
何年か前にお花見に来て、神猿さん
を見たと思う音譜
御所の鬼門、北東角、猿が辻。
解りにくいけど、横を向いた神猿さんニコニコ
 
そして、その時に立ち寄り美味しかった
お蕎麦屋さんに寄ろうと思ってたけど、
4月中順くらいまで、改装中で閉じてたえーん
日吉大社の参道にあるこちらで、
遅めのランチをいただいた音譜
他も観光するつもりで、足早に
西教寺を拝観したつもりが2時間
くらいかかってたねー
年季を感じる色合いのメニュー。
古代そばをいただいた音譜
初めてみる精進料理的なお蕎麦で
門前そばの見本のようなお蕎麦。
 
お出汁がきいてて、少し冷える日だった
から、暖かくて有難かったニコニコ
 

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